うすば蛉蜻日記

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2月28日(月) 小田島文庫のおっさん

ウチの近所(徒歩3分以内)には、つい最近できたコンビニ・サンクスをはじめ、リサイクルの婦人服店、化粧品店、薬局、パン屋、文房具屋兼本屋、定食屋、古本屋、銀行、内科・神経科のある病院、コンビニもどきの「よしさん」、タバコ屋などが揃っている。
リサイクルショップは一度覗いてみたが、こんなの誰が買うんだ〜と云うような高い値段の服ばかりだったので、たぶん二度と行くことはないだろう。新品のような服ではあるが、それにしても5000円などと云う値段は正気の沙汰ではない。ブランド物なのかも知れないが、どちらかと云うとオバサン向けの服ばかり。それなら私にちょうどいいだろうって?・・・
しかし、自慢じゃないが私は普通の店でも2000円以上の服はめったに買ったことがない。先日もフリーマーケットでそれぞれ200円のトレーナーとGパンを買ってきたが、これが正しい消費者感覚と云うものだ。・・・かな?
ともあれ、これだけの店があれば大抵の用は近所で済むわけで、ありがたい話である。中でもサンクスが出来たことはラッキー♪だったと思う。24時間営業だから、タロが中学に上がった暁には朝早い弁当作りも、ばっちり(死語?)である。・・・おいおい。

ところで、こうした店の中でも私の一番のお気に入りは古本屋の『小田島文庫』である。小田島文庫は、一階に小さな商店が並んでいて上が住居(アパートか?)になっていると云う、田舎によくある小さな店だった。
引っ越した当初から目をつけていたのだが、いつも閉まっていたので潰れた店なのかと思っていた。が、ある日前を通りかかると、間口1間しかない小さな店のシャッターが上がっているではないか。入り口の透明なサッシ戸から見える店内には、書架が処狭しと並んでいる。
私はワクワクして戸を開けた。とたんに店内の暖房でメガネが曇る。本が熱気を持って私を迎えてくれているような気もする。 あるある、ウヒヒヒ…なぜかにんまりと頬が緩むのであった。
小さな店だがマンガ本などはほんの少しで、文庫本(店名に偽りはなかった)がびっしりと書架に収まっていた。
私は嬉しくなって狭い店内を隈なく見て歩いた。店の奥には、本やらノートやらが乱雑に積み上げられた机の向こうに、店主らしきおっさんが黙って座っている。私が入って行っても知らん顔である。
古本屋のオヤジと云うのは、こうでなくてはいけない。やたらと愛想の良いオヤジは気持ちが悪い。
おっさんの机の上にある、それだけ場違いのように新しい小型のCDプレイヤー兼ラジオからFMが流れている。その音が結構やかましい。が、却って私は気兼ねなく本を選ぶことができた。
小さな店なので、本の数がそれほど多くないのは致仕方ない。だが、私の好きな作家の本もそこそこ置いてあり、私は時間を掛けて数冊の本を選び、購入したのであった。楽しみは少しずつにした方が良い。
小田島文庫のおっさんは、白髪まじりの髪がぐしゃぐしゃに伸びており、ヒゲもボウボウと生えるに任せているような按配で、外で会ったら正体不明の中年オヤジと云った風体をしていた。
これ、下さい。と本を差し出すと、本の裏表紙を開いてそこに貼り付けてある値段を計算し、「300円です・・・」とだけ云うと、私が買った本を店名もない、文具屋で間に合わせに買ったような薄っぺらいチェック柄の紙袋に入れてくれた。
店を出る私の背中に、「ありがとうございました」とひと言、けだるそうなおっさんの声が追いかけてきた。
私が越してきてまだひと月ちょっとではあるが、この店が開いているのを見たのは数えるほどしかない。毎日前を通って見ているわけでもないが、それにしてもこんな商売だけでこのおっさん、食って行かれるのだろうか、などと余計な心配をしたくなるほど店は閑古鳥が鳴いているような雰囲気である。いつ行っても(まだ2回だが)客はひとりもいないのだ。
しかし、出久根達郎さんのように、実は古本屋のオヤジは仮の姿で、作家なんぞをしているのかも知れない・・・と私は空想を膨らませながら小田島文庫を後にしたのであった。


2月27日(日) ダイヤモンドダスト

夕方、職場へ向かって歩いていると、雪か雨か判らないほどの微かに冷たいものが時おり顔に当たり始めていた。
それが大雪へと変わるまでに30分とかからなかった。2時間半後にはグレーに染まっていた歩道の雪の上に、新たに真っ白な雪が積もっていた。
帰宅する道すがら、純白の砂糖のように降り続く雪を踏みしめて歩いた。靴の下で雪がきゅっきゅっと音を立てている。わけもなく笑みがこぼれる。
ここに引っ越してきてひと月ほどは、この地方にしては珍しく雪が少ない日が続いていた。だが、ここに来て毎日のように雪が降っている。ひとたび降り始めると、いつの間にか数十センチは積もるのであった。
これが東北の冬なのだと実感する。昼間、晴れているように見えても雪が降っていることもある。
そんな時は、日差しに雪がきらきらと輝いて見えるのだ。ダイヤモンドの粒が風に舞っているようである。
これがダイヤモンドダストと言うのだろうか。おっちょこちょいな天使の落し物・・・
北国の長い冬にも、退屈ばかりではなく美しいものがあるのだと思った。

今日の日記は、ブンガク的に迫ってみた。なんちゃって。
が、私の日記はそれだけじゃ〜終らないのが常である。
先日、ジロは体育の授業でソリ遊びがあると張り切っていた。朝から準備に余念がない。
「お母さん!スキーウエアも持って行くんだよ。それにソリも忘れちゃダメだし〜」
その日は6年生を送る会と云うものもあったので、そこでダンスを披露する事になっていたジロはそわそわと落ち着きがなかった。
忘れ物はない?それじゃ行ってらっしゃい。と、子供たちを送り出して私は洗濯や掃除を始めた。しばらくして子供部屋の掃除をするために部屋のドアを開けると、そこにポツンとジロのランドセルがあった。
ん?忘れたのか?でも、まさか。。。6年生を送る会があるから、今日は授業はあまりないのかも知れない。子供たちが学校へ出かけて既に30分以上が経っている。もし、忘れたのなら歩いて3分とかからないのだから取りに戻ってきても良さそうなものである。そう楽観的に考えて、そのままにしておいた。
9時半頃になって電話が鳴った。ジロである。
「お母さん?あのネ、ランドセル忘れちゃった」
やっぱし…それで今どこにいるの?昇降口?そのままそこにいなさい、今持っていくから。
帰宅後、ジロが云うには
「学校へ行ったときには、ちゃんとランドセルを机の上に置いたような気がしていたの。それで、そのまま一時間目が終るまで ランドセルがない事に気が付かなかったんだよねー。ボク、もうボケちゃったのかしらん」
おいおい…ボケるにはまだ早いぞ。
そんな騒動があったため6年生を送る会では、モーニング娘の『ラブマシーン』を激しく踊ることになっていたらしいが、結果を聞くのを忘れてしまった。ジロのことである、精一杯腰なんぞを振って目立つように踊っていたに違いない。


2月24日(木) 末っ子の悲哀

今から三十数年前、私は五人兄弟の下から二番目に生まれた。私の下には6歳離れた妹がいる。つまり、当然のことながら私は妹が生まれるまでの6年間、末っ子として育てられたわけである。
すぐ上の姉と私は4歳年が離れている。一番上の兄とは9歳も年が違う。三つ子の魂百までと云うが、妹が生まれてお姉ちゃんになったからと云って、それまで末っ子として甘え放題でやってきた性格はそう簡単には変えられるものではない。
今でも姉たちと一緒にいると、私はあまり動かない。姉たちがやってくれると安心してしまうのである。こういう処が末っ子の、いつまでも人を頼りにしたり、気が利かないと云われる所以であろうか。
すぐ上の姉はと云うと、上と下に挟まれて割りの悪い立場にいたせいか、独立心旺盛な気の強いしっかり物である。少々気が強いのが玉にキズであるが。
私は下に妹が生まれて突然母がこちらには見向きもしなくなった苦い経験(と、幼い頃は思っていたものだ)をしているので、この姉の気持ちもよく判ると思っているので、そのせいか判らないが、この姉と一番気が合うのだ。
これが長女となると少し違ってくる。大抵は長女と云うとしっかり物と思われるが(これはあくまでも、我が家の場合だが)私の長姉はいわゆる長女風を吹かすところがあって、下の私たちをこき使うのだ。面倒見はいいのだが、余計な口も盛大に出してくれるのである。そして説教好きだ。
私に電話を掛けて寄越して、何でもない世間話をしていても突如として説教が始まる。本人はそんなつもりはないのかも知れないが、聞かされる方としては堪らない。これだけは勘弁して欲しいと心底思うのである。

私のように大人に囲まれて(祖父母を始め、伯父伯母たちが廻りにたくさんいたのである)育った末っ子(モドキとでも云うべきか)と云うのは、要領だけは良くなるようである。つまり、兄や姉たちが大人に叱られる処をたくさん見ているので、どんな事をすると大人に怒られるのか、どんな風にしていれば叱られないで済むか・・・可愛げのない話だが自然と身についてしまったのだから仕方ない。
いわば生きる知恵である。が、姉たちはそんな私をいまだに「あんたは要領が良かったから」と云って責めるのである。おいおい、そりゃーないぜ、と云いたい。末っ子で甘ったれで、泣き虫だった私にして見れば、大人に叱られる事がどれほど恐ろしいことだったか。大人たちの前に出ると緊張して、どうかヘマをして叱られませんように・・・とビクビクしているばかりで、少しも楽しくなかったのだから。
大人には「この子は大人しくて、どこへ連れて行っても安心していられる」と云われていた私だが、それが決して誉め言葉ではないことくらいは判っていたのだ。つまりは手の掛からない便利な子供だっただけの話である。
そんな誤解?を大人と兄弟両方から受けて育ったのが、大家族の中で育った末っ子の悲運だと私は確信しているのだが、大げさだと思われるだろうか。

私がまだ小学校の1,2年生の頃だったろうか。すぐ上の姉が家出をする、と云うのにノコノコついて行ったことがあった。
姉は当時、父から年中叱られていたので自分はこの家の子ではないと真剣に悩んでいたそうである。父もまだ若かったせいか見ていてもそれは恐ろしい怒り方で、姉の髪を掴んで引きずり倒し馬乗りになってお灸を据えたりと、今なら児童虐待になるほど父のお仕置きは半端ではなかった。
家出を決行した時は、姉もまだ小学生である。そんなふたりが家出をしても高が知れている。夕方遅くになって行く所もないので仕方なく家に戻ると、母がものすごい形相をして玄関に立っていた。
私は母の怒った顔を見ただけで、もう泣き出していた。そしてあっさりと白旗を揚げて母に許しを請うと、泣きじゃくりながら家の中へ入れてもらった。ところが姉の方は母になんと叱られようとウンでもなければスンでもない。じっと下を向いて立っているのだ。
私はそれからの事はよく覚えていない。姉もいずれは許されて家に上がったと思うのだが、今でも母はその時のことを思い出しては「あの子は強情な子だったからねぇ」と云う。自分が悪くないと思ったら、絶対に謝らない子だったと。
親も人の子である。いくら我が子でもあまり強情な子は可愛げがないと思うだろう。虫の居所が悪ければ、こっちも意地になって許したくなくなる、と云うことは私も子供を持って経験済みである。気が短かった父では余計であっただろう。
が、しかし、哀しいかなここでも私は姉から裏切り者呼ばわりをされる運命にあった。
「あの時のあんたって、ほんとうに要領が良くって・・・すぐ泣いて家の中に入ってしまうんだものねー」
30年近く経った今でも、姉はその時の話を持ち出しては私を責める。
よよよ…。6歳か7歳の子供が夜の戸外に立たされたまま親に叱られて、泣くなと云う方が酷だろうが〜。末っ子が一番分が悪いと思うのだが、それも甘ったれの意見なのだろうか〜?


2月19日(土) 盛岡のGTO

今週は子供たちの学校の授業参観と、タロの中学入学説明会とがあり、何かと忙しい一週間であった。
小学校の授業参観の方は、タロもジロも同じ日にちで時間も一緒だったのであっちへ行ったり、こっちへ行ったり忙しかった。以前、子供たちが通っていた小学校では授業参観日は低学年、中学年、高学年と3日間に分れていたのでふたりの授業参観が重なる心配はなかった。
もっとも、その分学期毎に続けて二日仕事を早退したりと、別な意味での大変さはあったが子供たちの様子をじっくり見ることができた。が、こちらの学校は一日で全学年の授業参観を済ませてしまうのだ。参観後の保護者会も前の学校は各学年で必ず行われていたが、今回(他の学年は判らないが)ジロは保護者会がなかった。
タロはもうじき卒業のため、保護者会の内容もたぶん、卒業式に向けてのものだろう。それに、その後には「謝恩会」で保護者が歌うことになっている歌の練習とやらがあるらしい。
私はタロ同様こちらの学校では卒業と云っても何の感慨も沸かないため保護者会も歌の練習も欠席して、子供たちを連れて姉とボーリングに行ってしまった。
とりあえず、子供たちはクラスの友達にも溶け込んでいるようなので問題ないだろう。

授業参観の翌日、17日(木)が中学の入学説明会だった。
中学校はアパートから東の方へ向かった小高い山の上にあった。アパートの前のバス通りを右に真っ直ぐ行くと、信号に突き当たる。そこから先は、私にとってまだ未開の地であった。
前日、姉に車で学校の前まで連れて行ってもらったのだが、今度はひとりで行かなくてはならない。方向音痴の私がたった一度しか行った事のない場所へ、道に迷わずに辿り着けることなどめったにないことであった。
信号を更に真っ直ぐ進むと急なカーブがあり、そこから坂道になっている。坂の途中で道を左に折れると、民家の間を 車一台がやっと通れる程度の、これまた急な坂道が続いている。
坂道なので自転車の方が楽だと思って乗って行ったのだが、最初の坂を登っただけで私の心臓はバクバク音を立てていた。ハァハァ荒い息をつき鼻の穴をおっぴろげて、よろよろと自転車で坂を登る私に恐れをなしたのか、前を歩いていた婆さんが慌てて脇によけた。
急な坂になると、自転車では登ることも出来ずに降りて押す。少し楽そうな坂になると、また自転車にまたがる。そんなことを繰り返しながら、やっとの思いで坂を登っていった。距離的には大したこともない道のりだが、坂にてこずり学校までは10分か15分ほど掛かっただろうか。
九十九折れになった坂道は民家に入るための小さなわき道はたくさんあったが、道なりに続いていたのでさすがの私も道に迷うこともなく中学校へ行くことができた。
説明会の会場になっている図書室へ着いた時には、着ていたダウンジャケットとマフラーをかなぐり捨てて汗を拭く始末。喉はゼイゼイ云っている。こんな坂を毎日々々喘息持ちのタロが登るなんて、果たしてできるのだろうとかと心配になる。

説明会が始まった。
ストーブが焚かれ、午後の日差しが燦々と当たる部屋はちょうどいい具合に暖まっている。私は段々とまぶたが重くなってきて、説明を始めた先生の声も霧の彼方へと霞んで行きそうである。
こんな所で居眠りをしては、子供の内申書にも響く(訳がない・・・今は無いんだっけか、内申書って)何とか目を開けていなければ〜。無理してカッ!と目を見開いて目の焦点を合わせると、前方のテーブルに並んで座った先生方の顔が見える。と…真中の席に座って物憂げに一点を見つめている先生ひとり。
どこかで見たことがあるようなないような・・・。はて、誰だっけ?誰かに似ている…そうだ。反町だ!目を眩しげに細めている仕草などもよく似ている。(別に私はソリマチファンではないのだが。しかも云っておくけど、私は目が悪い)イイ男だなぁ〜。これでやっと眠気も醒めた。
そのソリマチいや、ササキ先生は生活指導の先生であった。ササキ先生が「B 中学校生活について」の説明をするために立ち上がって話し始めた。お、背も高いじゃないか。むふふ、これで苦労して坂道を登ってきた甲斐もあったと云うもの。って・・・私はいったい、何をしに学校へ行ったのか。
こちらのGTOはそこはかとない盛岡弁?がソリマチの鋭さを緩和して、のほほんとしたグレィトティーチャーって感じィ?である。タロの担任が、どの先生になるのか非常に楽しみな母であった。


2月16日(水) 姿勢を正す(正しいやり方)

これもちょっと前の話になるが、引っ越して間もない頃から、タロが左の足首が痛いと言っていたのだが、先日学校でスキー教室があり(こっちの学校では3年生から近くのスキー場へ行ってスキーの授業を受けるのだ)帰ってきてから、ますます痛みがひどくなってしまった。
仕方なく近くの整骨院へ連れて行った。すると看板に『骨盤のゆがみを治すと自律神経失調症、腰痛、ぎっくり腰、頭痛、便秘etc・・・が治ります』と書いてあるのが目にとまった。
おお〜、これぞまさしく私が求めていたものではないかぁ〜と思い、タロが治療されている時に思い切って先生に聞いてみた。
「あの、表の看板に書いてあったことなんですけど・・・どういう治療になるのでしょうか?」
モト柔道選手のような堅太りの先生は、私の症状を聞くとそれでは試しにやってみてはどうか、と云うのでそれもそうだと思いさっそく頼んでみた。まずは電気治療器で腰と肩に電気を当てることになった。私の服を持ち上げて腰を見た先生は
「あ〜、こりゃひどいなぁ」と呟いた。えっ?そ、そう?(~_~;)
電気治療が終ると、今度は別のベットでうつ伏せになるように云われた。
「今日は初めてですから、軽くやっておきます」
と云うなり、先生は私の背中辺りをぐいぐいと押し始めた。
ん、ぐ、がぁ〜〜。どこが軽くなんじゃい!先生は私の背中に馬乗りになって(たぶん)足のひざ辺りで押しているのだ。
声を押し殺して(タロも見ているし)耐えていたものの、ガマンできないくらい痛い。涙がにじんでくる。
ボキボキボキ!骨が鳴っているよぅ〜。先生は私に馬乗りになりながら、ここが悪い、ここも悪いと説明してくれるのだが、そんなものは耳に入らない。
と、今度は私の頭の方に立って、首の両脇を揉み始めた。
「ここがダメなんだよなぁ〜、ココ。ほら、ここ痛いでしょ」
先生が右の首筋を押すと確かに左より痛い。
「あ、ハイ。痛いですぅ・・・」
返事をするかしないかのうちにアゴがぐいっと持ち上げられたかと思ったら、いきなりバキッ!と首を折られた。もとい、首を捻られた。はがぁ〜。もう、声も出ない。
「どう?楽になったでしょ。さっきのところ」
確かに押されても痛みは無くなっている。が、もう!オネガイだから楽にしてぇ〜と云いたいほど、その前が痛かった。
今度は身体を横にしましょう、と云われて横向きになれば、雑巾を絞るように身体を捻られ、またボキボキ。起き上がって両手を頭の後で組んで!と云われては(イヤ〜な予感)背骨をボキボキ!
からだ中の骨と云う骨をすべてボキボキやられて、私は「ちょっと試しに・・・」などと思った自分の迂闊さを呪った。
タロは、最初に先生が馬乗りになった時点で恐ろしくなったのか
「ボク、先に帰る」と云って、さっさと出て行ってしまった。この裏切りモノ〜。
これでは、まるで『スター誕生のオーディションには友達の付き添いで行ったのに、私がスカウトされてしまいました』的状況ではないか。(そんな例えってあるかいな)

ようやく拷問から解放されると、まだ茫然自失の態にある私に、先生は説明を始めた。
「まず、あなたの背骨ね、普通の人はまっすぐ立っている状態の時には内臓の方へ曲っているんだけど、あなたのは逆なの。外側に曲がっているの」
やっぱりね。自分で背中を鏡なんかで見ると、背骨のカタチがはっきり出ているのは前から知っていたのだ。それを面白がって子供たちに向かって
「お母さんは、着ぐるみ着ているんだぞぉ〜。ホレ、背中にチャックがあるでしょ」
な〜んて遊んでいたのだから能天気な私。
「それと、骨盤ね。骨盤がまた変わっているんだよなぁ〜。右側は捻れて上に上がっているんだけど、左側はそのまま、すっと上にあがっているんだよね。こういう人ってあまりいないですよ」
ご丁寧にどうも…。何なら、死んだら標本にでもしますか?
「これは治すのに時間が掛かるけど、まぁ気長にやりましょう」と最後に先生は云った。
うむぅ〜。この状況ではイヤとも云えない。それに痛いことは痛かったが、治療を受けた後には曲がりにくかった足が(寝た姿で膝を曲げて、そのまま足をお腹の方へ倒す)すんなりと曲がったりしたのを自分の身体で体験してしまったので、これはもしかしてイイ先生と巡り会ったのかも知れないと思い、通院を続けることにした。
それにしても、骨って力ずくで動かせるものなのだなぁ〜、と妙に感心してしまった。
これから立ち仕事を続けて行くためにも、骨盤&背骨をまっすぐに?して、まさしく姿勢を正して新しい仕事に精進する決意を新たにしたのであった。
私ってば、エライ。・・・(-_-;)


2月15日(火) ウエイトレス修行〜オバサンはつらいよ〜

引越しの話も書いたし、トイレの謎も解けたところで私の新しい仕事についてお話したいと思う。と思ったが、その前に・・・盛岡のトイレの必需品とは!?
姉が「コレは必要だから」と用意しておいてくれたモノがあるのだ。他の地域ではどうだか知らないが盛岡では当たり前にトイレに置くものらしい。その名もズバリ!『トレポカ』
何かと云うとトイレに設置するファンヒーターなのだ。さすがに寒い地方だけあってアパートでもトイレにはコンセントが必ずついている(らしい)。暖房便座やこのトレポカは寒冷地ならではの必需品なのである。
このトレポカ君、ガタイは小さいが(高さ25センチ、幅20センチほど)その暖房威力はかなりのものである。はじめはこんなに小さくては暖まる前に用が済んでしまうのではないか?と思ったが、おみそれしやした!便座に座って足元のトレポカ君のスイッチを入れるやいなや、ぶぉ〜っと温風が吹き出して来て、たちまちトイレ内は暖かくなるのだ。
うっかり消し忘れておこうものなら、その後でトイレに入ろうとドアを開けたとたん、ムワッとするほどトイレ内が温まっており陶器の便器は暖房便座のようにポッカポカになっているのである。しかも転倒すると自動的にスイッチが切れる仕組みまでついているスグレモノ。トレポカ恐るべし。。。。

と云うことで、本題の私の仕事について話を戻そう。
そもそも盛岡には私の姉夫婦が住んでおり、私は姉たちが経営するスパゲティ専門店で働くために盛岡へ引っ越してきたのである。そのスパゴへの初出勤は1月27日だった。姉たちは1月いっぱいは片付けなどをして、のんびりしていれば良いと云ってくれたが、いくら身内の手伝いとはいえ、いや、身内だからこそ最初から甘えていてはいけないと思い、片付けもそこそこ終わった27日(26日水曜日は店の定休日だったので)から出勤することにしたのだ。
とは云っても私の勤務時間は開店の午前11時半から店の一番のかきいれ時、昼食時を過ぎた午後2時頃までである。たったの2時間半の勤務だ。充分甘えているのであった。それでも初日は緊張していたせいで、家に帰ってくるとドッと疲れが出た。
私は若い頃にウエイトレスの経験もあったので、身体は使うけれど頭は大して使わないラクな仕事だ(今までの仕事に比べたら)くらいに考えていたのだがそれは甘かった。まず、メニューをすべて覚える必要がある。スパゲティだけで約70種類。それにバリエーションが何通りかあって、すべてを合わせると100種類近いメニューを覚えなくてはならないのだ。
その上伝票には略して書く必要がある。例えばタラコとイカのスパゲティならばタラコのTを○で囲んでTイカと書く。アサリとシメジ・シイタケ・納豆・キムチのスパゲティならばアサリスペシャルなのでA・Sになり、Sは○で囲む。それがガーリックソースになると更にGを付ける。こんな風にお客から聞いたオーダーを伝票に書いたり厨房へ通す時には略す必要があるのだ。
それだけではなくオーダーを通す時には決まり事があって、作るのに手間がかかるソースものは一番最初、アオリ(フライパンで作るもの)はその次で、練り物のたらこなどは一番最後。しかし、オーダーが複数ある場合や大盛りの時にはそちらを優先しなければならない等など、気が狂いそうになるほど細かいルールがあるのだ。
どんな些細な事ひとつを取っても、その店によって決まりがあると云うことは経験から判っていたが、姉の店はそれがハンパではなかったのだ。お冷の出し方ひとつでも決まりがある。まず、5人分くらいではトレーなど使わない。どうして?と思ってもそれがルールなのだから仕方ない。左手に4つ、右手にひとつのコップを持って、客席まで歩かなければならないのだ。
このルールは姉が考えたらしいが姉が云うには、なまじトレーを使う方が落としたりすると大変なことになる。この方が危なくないわよ〜。と云うのだが、ちょっと待て。姉は手がデカイからそれでいいだろうが私は姉と手の大きさを比べると、指の第一関節分くらいは小さい手をしているのである。姉は自分ができることは誰にでもできると思い込むフシが昔からあったが、それは今も変わっていなかった・・・
それはともかく、トシのせいか物覚えが悪くなった私にとって、メニューを暗記すると云うのが一番の難問であった。メニューの一覧がお客からは見えない柱の裏に貼り付けてあるのだが、あまり見やすいものではなかった事もあり、私はエクセルでメニューのリストを作ってエプロンのポケットに入れておく事にした。オーダーを取るたびにメニューの略と金額をそれで確認するのである。

今のところオーダーミスはないけれど、毎日が刺激的・・・と云うべきか。ちなみに現在は開店から午後3時頃まで仕事をし、それから一旦家に戻り子供たちに夕食を食べさせて、再び午後6時半頃から閉店の9時まで出勤(これも必ずしも毎日ではない)と云う変則的な勤務態勢をとっている。まだまだ私の修行は続くのであった。


2月14日(月) 夜更けのトイレ

引越してから今日までをずいぶん駆け足で紹介してきてしまったが、水道の水抜きをした後でトイレはどうするのか!?と云う疑問の声が寄せられているので、ここで紹介しよう (。・_・。)ノ
その前に、トイレのタンクについて触れておく。一見ごく普通のトイレに見えるのだが、タンクの水はあまり貯まらないようになっているらしい。タンクの大きさは一般のもの?と変わりはない。いや、大きく見えるくらいなのだが、そこに溜まる水の量が少なくなっているようなのだ。
なぜ最初にこんな話をしたかと云えば、貧乏性の私は引越し前にトイレのタンクの水も抜かなければいけないと聞いて、真っ先に「タンクの水が勿体ない!」と思ったのだ。
普通のトイレのタンクの水は、1度くらい流してもなくならない(と思う)。それを水抜きの時には用もないのに、ただ流して捨ててしまうなんて・・・タンクには何リットルかの水が入っているはずだぞォ!と思ったのだ(ちと、みみっちぃ話だが)。
タンクの水でさえ凍結するから捨てるわけで、タンクに水や砂を詰めたペットボトルを入れて、溜める水量を調節しておくと云う主婦の裏技?も使えないと云うことだ(ペットボトルが凍って底にくっ付いていたりしても困る)。何かいい手はないかと考えていたのだが、初めて水抜きをした後にそんな心配は無用だったことを知った。1回流しただけでタンクの水はスッカラカンになってしまったのだ。
寝るまでに、まだ数回はトイレに立つつもり?でいたのでちょっと焦った。それでも、小の方ならば「明日の朝流せばいいや〜」で済むけれど、これが大の場合は・・・誰しも想像することだろう。
少し前に北海道に住む姉から電話があって、姉が北海道へ行ったばかりの頃、水抜きをしたことを知らないでトイレを使ったところ水が出ず、夜中に夫や姑たちを起こす大騒動になった話を聞いたばかりだったので、とにかく『大』は昼間あるいは夕方までに済ませなくてはいけない、と心に刻み込むと共にタロ、ジロにも
「これからは、夜中にトイレの水は流せないのだから、あまり寝る前に水分を取らないように!特に『大』は厳禁〜!」(・・・そりゃ無理だってば)
ともかく、そんなお触れを出していたのであった。
とはいえ、人間そう都合よくいくものではない。出モノはれモノ所嫌わずと云うように、あんなものいつなん時もよおしてくるかなど判るもんじゃない。そして、お触れの禁を一番最初に破ったのは、何を隠そうこの私であった。
引っ越して間もない夜中。突然、腹の調子が悪くなった。あれ〜、なんつうことを〜。
尾籠な話はこのくらいにしておくが、その晩私は痛む腹を抱えてトイレと風呂場の間を"青いバケツ"を持って何度も往復した、とだけ付け加えておこう。

ここで一句・・・

晧々と眩しきトイレで我ひとり
蒼きバケツを 抱くぞ哀しき


2月13日(日) 盛岡の夜は更けて

引越し・後編〜新生活始まる〜
1月22日、いよいよ私たちの新しい家に荷物が届く。姉の家を8時過ぎにでて、アパートへと向かう。
私たちの新居は町名がそのままアパートの名前になっていた。
ここは盛岡駅からほぼ真東の方角に位置しており、街の中心地を流れる中津川を越えて500Mほど行った辺りにある。
街の中心からは少し外れているが、住宅が建ち並びその間には商店も点在しており、なかなか便利そうな場所である。
朝9時に荷物が届くことになっていたので、時間より早めに行ったのだが、トラックが到着したのは9時半を廻っていただろうか。それから引越し屋の男性4人と私の兄の総勢5人掛りで荷物の搬入が始まった。(子供たちは姉の店に待たせておいた)
川越で荷物を積み込んだ時にも言われたが、うちは荷物が多い方らしい。大したものは持っていないつもりだが、根が貧乏性のせいかモノを捨てるということがなかなか出来ない。それでも今回の引越しに際しては、涙を飲んで?だいぶ捨ててはきたのだが4トンロングと云うトラックに一杯の荷物が我が家に運び込まれた。
どの部屋もダンボールの山になっているため、ストーブも出せない。寒さに震えながら荷解きをしなくてはならなかった。真冬に引越しなんぞ、するものではない。
日通のオジサンたちが帰り、兄も子供たちをみるために姉の店に戻ってからも、私の荷解きは続いた。やっと数多ある荷物の中からストーブを探し出して、部屋を暖めることもできた。だが前日の寝不足が祟ったのか、あまりの荷物の多さに頭が混乱したのか、姉の店が閉店になった午後9時過ぎに姉から電話を貰うまで一心不乱に荷解きをしていたのにも関わらず、どこを片付けたのか!?と思うほどダンボールの山に変化は見られないのだった。
荷物の山の中で、私はしばしボーゼンと立ち尽くしていた。

月曜日は市役所へ転入などの手続きをしに行かなければならないし、火曜日には子供たちを学校へ行かせなくてはならないので、とにかく人間が住めるようにしなければならないと思い、翌日曜日も朝からアパートへ行って(前の晩も姉の家に泊まった)必死になって荷解きをした。その間にも、頭の中はこれからの予定を反復している。
何をそんなに焦っていたかと言えば、引っ越し前に川越の学校へ転校先に持参する書類を取りに行った時、新しい学校へはいつ行けばいいのかなど具体的な話もしてもらえるとばかり思っていたのだが、そうした話はまったくなかったのだ。それで転校先の学校へ直接電話をして聞いたところ、転入届の後に転校手続きをして、教育委員会の会議を経て、その後にどの学校へ通いなさいと通知がくるから、それから通学できるようになる、といった話を聞いたのだ。
お役所仕事を待っていたら、一体いつ子供たちは新しい学校へ通えるのだ!しかも、川越の学校から盛岡の学校へは、うちの子供たちの転校についての知らせは行っていなかったのだ。
前の学校の教頭からは、どこの小学校へ行くことになるのか聞かれたので「たぶんコレコレという学校です」と返事をしたら「それではこちらで問い合わせておきます」などと云っていたので、てっきり知らせが行っていると思っていた。
転校など親の都合でかなりの数の子供が年間通してしていることだと思う。何も特別なことではないのだから、もう少し横のつながりを持っていてもいいと思うのだが、手続きや書類上の日付に拘るところは学校も役所と何ら変わりないようだ。
結局は市役所へ問い合わせて、月曜日の朝一番で転入の手続きさえすれば、朝から子供たちは通学しても良いと言われてほっと胸をなでおろしたのだが、肝心の学校側で受け入れの準備が出来ているかどうか疑わしい状況だったため月曜日には私が学校へ挨拶へ行くだけにした。
その晩も結局は、寝る場所を確保した程度にしか過ぎなかったが、ともかく新しい家での第一夜を母子3人で迎えることができたのであった。

月曜日、子供たちを連れて市役所へ行く。市役所までは歩いて15分ほどだろうか。
転入も転校の手続きも簡単に終わった。その他にも国民健康保険や母子家庭の福祉関係の手続きもあったが、この話は長くなるから省く(児童扶養手当の手続きには、都合3回市役所へ足を運ぶはめになった)。
午後になって私は学校へ挨拶へ行った。アパートの隣には武道館(コンサート会場ではない)があって、その隣が学校である。徒歩2分と掛からない至近距離だ。
この学校、創立は100年以上前らしいが、平成になって校舎を建て替えたそうで、まるで私立の学校みたい?に綺麗である。子供たちは学校の真新しさを見ただけでビビっていた。おいおい…
全体が淡いピンクに見えるのだが、スイスの建物のような格子模様(スイスの観光写真をみた時に建物がそんな柄だったような気がする)があって、その部分がピンクに塗られているのだ。
子供たちの担任の先生方に紹介して頂く。どちらも女性の先生で、私は内心(ジロはがっかりするだろうなぁ〜)と思ったのだが、優しそうな先生ではあった。

1月25日火曜日。ようやく子供たちは学校へ行き、日常生活が始まった。
私はというと、まだダンボール箱と悪戦苦闘していたのだが、それよりももっと大変な課題が私にはあったのだ。
水道の水抜きと云っても関東から西の人にとってはナンのこっちゃ、と思うだろう。私も盛岡へきて初めてする事になったのだが、どうしてそんなコトをするかと云うとこちらでは真冬に最低気温が零下10度を下回ることも珍しくないそうで、それくらい気温が下がると水道の水が凍ってしまう。
そのまま放っておくと水道管が破裂してしまうため、最低気温が零下10度以下になりそうな晩は、寝る前に水道の水を止めて、元栓から室内の蛇口までにある水もすべて抜いておかなくてはならないのだ。つまりは家の中のどの蛇口からも水は一滴も出ない事になるのだ。トイレだって例外ではない。冬場はコーヒーをがぶがぶ飲んで(寒いから)それでなくても近いトイレがますます近くなる私としては、水が出ないと云うだけでもかなり深刻なモンダイであった。
水抜きのやり方はと云うと、部屋の外(ドアの隣の鉄の扉を専用の鍵で開ける)にある水道の元栓をまず締める。それだけなら別に大した手間ではないのだが、更に空気弁を開いて水道管の中の水を空気で外へ押し出す作業をしなくてはならないのだ。この空気弁の開け閉めがワケが判らない。
右に捻ると空気が出て、左に締めると空気が止まる仕掛けになっているのだが、捻る部分の下には鉄の棒が伸びていて、それが下の方で更に直角に曲がっていて、捻るたびにその棒がカックン、カックンと動くのだ。どこまで捻ればいいのか、さっぱり判らない。
一応、最初は姉に実演してもらい見ていたのだが、自分でやるとなると感覚が掴めないのだ。その上大家さんからは、万一間違いをしでかすと(水道の元栓を開けて、空気弁も開ける)タンクにある水がすべて流れてしまい、その水道代だけで6万なんぼになると脅かされていたので、毎回ビクビクしながら水道の水抜きをしているのである。
大家さんからは更に
「前にこのアパートに住んでいた人が統計を取りましてナ、気温が零下7度程度ならば水抜きは不要。しかし零下10度になると凍ります」と有難いアドバイスを受けていたため、水抜き初心者の私としては天気予報で最低気温零下7度と聞くやいなや落ち着きがなくなる。零下7度と10度の差など、私には判らないからだ。
引越し早々に騒ぎを起こしたくはないので、用心して零下7度の予報が出ると私は水抜きをすることにした。だから天気予報で最低気温が水の凍結しそうな温度ギリギリの線だと、落ち着かない。
「早いとこ水抜きせにゃアカン。絶対に忘れないようにしなけりゃ〜」と気が焦る。これは絶対に心臓に良くない。
とにもかくにも、こうして私たちの盛岡での新生活は始まったのであった。


2月10日(木) 北国の第一夜

引越しの話は2回くらいでまとめようと思ったけれど、話せば長い事ながら・・・となりそうなので、前・中・後編にする事にした。
引越し・中編〜再会〜
盛岡へ着いたのは、午後7時半近くだった。
ホームに降り立つ人たちを見ると、皆コートこそ羽織っているものの、それほど厚着をしているようには見えない。
それに引き換え私たち親子は、スノーブーツを履いて、ダウンジャケットの中にはマフラー。手袋は勿論のこと、私は耳当てまでしている。なんだか場違いな処へ来た気分である。
駅の外へ出てみると、さすがに雪が道端にかき寄せられているが、それほどの積雪はみられない。それに、思ったほど寒くないのだ。
な〜んだ、盛岡の寒さってこんなものなのか!?私は正直、拍子抜けがした。
姉や会社の同僚たちには、寒いよ〜、凍えるよ〜と散々脅かされて来たのだ。体感温度はせいぜい1,2度くらいだった。
駅からタクシーを拾って、まずは姉夫婦の店「スパゴ」へと向かう。
車中から通りを見るとOLらしき女性などは、ハイヒールを履いて歩いている。ごく普通のコードを羽織り、ボタンなど留めもせず平気な顔で歩いている。
私は引越し前に、様々な防寒着を買い込んでいたのだが、果たしてそれらは本当に必要になるのだろうか。無駄な買い物をしたようで何だか腹が立つ。
長袖の下着にズボン下(いわゆるモモ引きと云うヤツ)、厚手の靴下などを大量に買ったし、農家のご婦人御用達キルト地のもんぺ!まで買って持って来たというのに・・・
運転手さんに今年は雪が少ないのかと聞くと、やはり今年はあまり降っていないそうだ。それなら雪が降ればもっと寒くなるのかと思って
「今年は暖冬なんですね〜」と云うと、
「いや〜、雪は少ないけど、やっぱり寒いっすよ」と云う返事。
ふぅ〜ん。。。零下10何度とか聞いてきた割には暖かいと思うのだけどナ。別に暖かいのは結構なのだが、どんなにか寒いことだろうと覚悟して来たので、川越と大して変わらない寒さには何とも納得がいかない。

盛岡へ着いたのが、1月21日の金曜日だったので、その晩と土曜日は姉の家に泊めてもらう事になっていた。どっち道、荷物が着くのは翌日になる。家の中を片付けるのに子供たちがいては邪魔になるだけである。
スパゴに着いた。
約1年半振りに来たのだが、これから自分が働く事になる職場かと思うと、改めてじっくりと見回したものだ。思っていたより広い。
奥の壁際に4人掛けのテーブル席が4つ。店の中央には細長いテーブル(10人ほどは座れるだろうか)があり、調理場の前にはカウンター席が7席。満席になると30人以上は入れる店だった。
店が終わるのを待って、姉の家へと向かう。店からは車で20分は掛かるだろうか。山に近いところにあるのだ。さすがに路面は凍結している。姉の家の方は、店の方よりもはるかに雪が多かった。寒さも違うように感じる。
さっそく姉の家の愛犬、タロウの出迎えだ。姉たちの「ひとり息子」であるタロウは箱入り息子なので、一年中玄関の中で飼っているのだ。久しぶりの対面だが、私たちの匂いを覚えていたとみえて吠えることもなく、しっぽを振って迎えてくれた。
義兄はまだ入院中だったので、子供たちを寝かしつけた後、私と姉は二人でビールを飲んで、再会を祝った。
これからは姉には世話を掛けることになるだろう。姉がいなければ盛岡へ住むこともなかったわけだが、それにしても遠くの土地へ引っ越してきて身内がいてくれる事はありがたい。
前日からの荷造りで疲れ果てていたにも関わらず、私は姉と深夜2時過ぎまでお喋りをしていたのであった。


2月4日(金) いざ盛岡へ

1月21日の金曜日に盛岡へ引っ越して、はや半月あまりが経った。
生活の方は、ようやく少し落ち着きをみせてきた。
引越しのことを日記に書こうと思っていたのだが、なかなか時間が取れず今日になってしまったので、引越しにまつわる話は前編・後編に分けて書こうと思う。って、そんなに大した話でもないのだが。

引越し・前編〜涙の別れ〜
思えば、突然引越しの話が降ってわいてからと云うもの、怒涛のような毎日が過ぎていった。
埼玉から一歩も外へ出たことのなかった私にとって、遠距離の引越しと云うものが、これほど大変なものだとは思ってもいなかった。引越し歴も両手ほどになろうとする私でさえ、疲労困憊したのであった。
去年の暮れのうちは、まだ余裕があった。引越しまでまだ間がある。
正月休みや成人の日を含めた三連休もある。それで荷造りは出来ると思っていたのが大きな誤算であった。
正月休みはお屠蘇気分のまま終わってしまった。そして、その他の休みは、親戚へ挨拶に行ったり、旧友たちに新年会に誘われたり(兼送別会だと云われては断る訳にもいくまい)して、あっと言う間に引越しの3日前になってしまっていた。
1月18日の午前中まで会社へ行っていたので、本格的に荷造りが出来るのは、二日しかないことになる。
ほんとうならもっと早く会社を辞めて、ゆっくり荷造りをしたい処だったが、パート勤めの身にはそれは出来ない話である。非日常的なことがあっても、普段の生活は続いているのだ。
それでも私の代わりに入った女性たちへの引継ぎも何とか終わって(と、思っているが…(-_-;))ほっとして会社を後にする事ができた。
今まで何かと文句を云ってきた会社だが、辞めるとなると寂しいものだ。勤続5年と云うのは決して長いものではないが、私にとってはモト夫との不仲から離婚へとなだれ込んだ時期と勤めていた期間が重なっていたし、その後の生活を支えてきた仕事だったので感慨もひとしおであった。
なかでも同僚のHさんには、心から感謝している。彼女がいなかったら今日の私はいなかっただろう。
時には姉のように、また時には母のように私を支え、励ましてくれたのは誰よりもHさんであった。

さて、荷造りを始めたが、その最中にも友達や親兄弟から電話が掛かってくる。
「どう?荷造りは進んでいる〜?」「引越し、もうじきだったよねー」とか「何かあったら手伝うから」などなど。
嬉しいのだがそのたびに荷造りは中断されることを余儀なくされるわけで、内心では
「そうだよ、だから今は忙しいんだよ!」と思いつつも
「ありがとう〜、頑張っているわ〜」と、つい愛想良く返事をしてしまう私であった。
荷造りをするにも普段使っている台所用品や服などは早々と片付けるわけにもいかず、そうしたものの荷造りが最後まで残っていた。しかも、それらが一番量も多いし、片付けに手間取るのだった。
引越し前日の晩は、夜中の3時まで台所でもぞもぞとやっていた。が、終わらない(T^T)クゥー
よっぽど残りの荷物は捨てていってやろうかと思ったが、ぼーっとした頭で考えたことなどロクなことではないと思い直して、とりあえず思考力を取り戻すためにも仮眠をとることにして、服のまま布団へ倒れこんだ。
朝、6時。気力で起きて、また荷造りを始める。子供たちは友達の家に預かってもらうため、普段より早く追い出す。
結局、引越し屋のトラックが来ても、まだ荷造りをしてる状態であった。それでも会社の同僚や友達が手伝いに来てくれて、何とか荷物はすべてトラックに収めることができたのであった。

我が家の全財産?を乗せたトラックを見送り家の掃除も終わると、もう新幹線の時間まではする事もない。さっきまでの戦争のような慌しさがウソのように、家具がなくなりやけに広く見えるようになった家の中に私ひとりが取り残された。
住んでいた時も隙間風だらけで寒い家だったが、今は暖房器具ひとつないので、家中が深々と冷えている。がらんとした家はもうすでに私たちの家ではなくなったかのように、よそよそしい顔に変わっていた。
1階の台所の壁には、掛け時計や額縁の跡がくっきり残っている。私が吸いつづけたタバコのヤニのせいである。
この壁と同じくらい私の肺は汚れてしまっているのだろうなぁ〜、などとくだらないコトを考えて家の中を見回していると、ふと開きっぱなしになった流し台の扉が目に止まった。
・・・(-_-;)やってもうた。扉の内側に包丁が差し込まれたままになっている。
仕方なく新聞紙に包丁を包んで手荷物の中へ入れる。新幹線だから良かったものの、これが飛行機だったら、私は間違いなくハイジャック犯と思われて警察へ通報されていただろうな…

子供たちを友達の家へ迎えに行き、そのまま一緒に食事をしに出かける。
もっと余裕をもって最後の食事が出来ると思っていたが、大宮へ向かうまで2時間ほどしかなかった。
ファミレスで何となく落ち着かない食事をしたあと、最寄駅へ行き大宮へ向かう電車を待っていると、いつの間にか子供たちの友達とその母親たちが駅に来ていた。
総勢15,6人はいる。子供はよく遊んでもらっていたが、私はあまり親しい口も利いたことがない親が殆どだったので正直その見送りの人数には驚いた。
一緒にPTAの役員をしていたMさんは、改札口の前で握手をすると、
「元気でね。手紙書くから・・・」と言ったきり涙声になってしまった。
私は女の涙に弱いのだ〜。思わずうるうるしてしまった。
一緒に食事をしたAさんは彼女のお子さんとジロが大の仲良しだったので、私も時々Aさん宅へお邪魔していたのだが、彼女は見送りの子供たち数人を連れて大宮まで見送りに来てくれると云うので、一緒に電車へ乗る。
大宮駅には私の母も見送りに来ていたが、一緒についてきた見送りの子供たちに圧倒されたのか、新幹線の改札の前で、それじゃあ、と云って帰ってしまった。
あとで兄に、あんまりたくさん見送りがいるからびっくりして帰ってきちゃった、と云ったとか。おいおい…

17時26分大宮発、東北新幹線こまち23号が大宮駅に車体を煌かせて入ってきた。
停車時間は1分ほどなので、座席を確認して荷物を棚に乗せている間に電車は動き始めていた。
ホームにいる見送りの人たちに手を振ったが、瞬く間に電車は速度を速めて、夜の街並みを窓に映し出すだけになってしまった。
座席に座ると、疲れがどっと出てきた。
窓の外にはネオンが瞬いて、あぁあれは何ビルか、あっちは何ビルだ…窓枠に肘をつき、ワケありで列車に乗り込んだバーグマン張りのイイ女を気取ってみたが、窓に映る化粧気もない髪を振り乱した自分の顔に、そんな妄想もあっという間に消し飛んだのであった。
それでもしばらくは感傷に浸っていたが、気が付くとすっかり眠りこけていて、次に目が醒めた時に窓の外に見えたのは、福島の駅のホームであった。