うすば蛉蜻日記

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12月2日(木) ワールドカップ

今日でバレーボールのワールドカップが終了した。11月から約1ヶ月、毎回テレビの前にかじりついて見ていた。
が・・・男子はいつの間にこんなに弱くなってしまったんだー!(T-T)
10位だよ、10位!中国とチェニジアしか下にいないの!
男子バレーの黄金期を知っている私としては、まったくもって歯がゆい結果になってしまった。
あと一息でセットを落とした色々な場面を思い起こすと、これが今の日本の実力なのかと思わざるを得ない。
加藤クンや朝日健太郎、ノブコフ205などの活躍も虚しく、とは決して言いきれない不満が残ってしまった。消化不良を起こしそうだ。
日本が負けるたびに、私も意気消沈。段々、鬱状態になってしまった。
それに今回の男子バレーを見ていて、気になったことがあった。それは、寺廻監督だ。
このヒト誰かに似ているなぁ・・・と、思っていたら、そいつは元夫だった。(爆)
どうりで男子バレーを見るたびに、気持ちが落ち着かなくなると思ったゼ・・・なんちゃって。

今日のブラジル戦を見ながら、私は半ばヤケクソになっていた。
最後の試合だからって、急に強くなるとも思えない。
それにしてもあのアナウンサーはうるさい。やたらと喚く。いや、喚きっぱなし。
「ニッポン!ブラジルを引き離しておりますー!!」
・・・たった1点じゃないか。(-_-;)
「これがニッポンのバレーなんです。世界に通用するんですー!」
・・・3勝しかしてないのに。(-_-メ)
オマエがうるさいからバレーに集中できないんとちゃうか〜!ワレー!!・・・八つ当たり気味である。
それでも1セットを取られた後で、2セット目を取り返した時は、ちょっとスカッとした。
「よし!ここからや、最大集中やで〜!!」テレビに向かって私も喚く。
選手たちは流れる汗を拭きながら、コートチェンジをしている。それを見て思わず
「汗は心の涙だ!」と、大昔の青春ドラマのセリフを私が口走ると、ジロがすかさず
「ち○ポコは男の勲章だ!」そこで、私がまた応戦して
「だから、ブラ下げているのか〜」と、いいラリーが続いたと思ったら、タロに張り倒された。
(訂正;「汗は心の涙だ」→「涙は心の汗だ」(^-^;))

こうして、私のワールドカップは終った。完全燃焼した。(どこがー)


11月23日(火) 蘇る勤労

うつ病のことを書いてから、ひと月ほどが経った。そう言えば、その後の展開を少しも書いていなかったことに気がついた。
まず、病状(と、言うのかな、一応)は、BBSなどを見てくれている人にはお判りだと思うが、だいぶ落ち着いてきている。ドツボからは抜け出したと思う。
病的に考えこんだり、眠れなくなったり、食事が喉を通らないという事は今はない。誰でもちょっとした事で一日くらい落ちこむ時はあるだろうが、今はせいぜいその程度の気分の変化で済んでいる。

うつ病を発症したのは、前にも書いたように遠因としては子供の頃の体験があるのだが、今回数年ぶりに大きなうつ状態に陥ったのは、今年の夏にモト夫と電話で大喧嘩をした事などが引き金になっていたと思う。
モト夫とは、これ以上一緒に暮せないと思ったから別れたのだが、それでも私はどこかで彼を信じていた部分があったのかも知れない。少なくとも子供の父親としては。
だが、それがどんなに甘い考えだったかを痛感したのだ。その時の腹立ち紛れに書いた日記は、この日記を再開した時にあまりにも内容が自分本意に傾いていたと思ったので削除してしまったが、電話での喧嘩以来、私はどう頑張っても、たとえ子供たちのためでも、もう二度とモト夫と顔を合わせることもしたくない、子供と会わせることすら厭だと思った。
別れても子供たちのためにはいい関係を続けたい、などと言うのは散々憎しみあって別れた夫婦にとっては幻想でしかなかったのだと改めて実感した。
モト夫も、夏休みに子供たちとバーベキューをして以来、連絡もよこさない。9月の運動会では見学に来ているのを見かけたが、もちろん私から声を掛けることもしなかったし、向こうも知らん顔をしていた。
私にはモト夫が、自分がヒマな時や寂しい時だけ子供のことを思い出しているように思えてならないのだ。彼の子供に対する態度すべてが、子供のためと言うより、自分の気分でやっているとしか思えない。
心療内科で、離婚に至るまでの経過と現在の私の状況を話した時に先生に言われたことは
「離婚をして新しい生活を始めたからと言って、そう簡単に過去を忘れる事はできませんが、あなたは今でも離婚した時の気持ちを引きずっている。別れたご主人の両親に対しても、今でも恐怖心を抱いている。それを忘れていかなければ、せっかく離婚をしたのにあなたの気持ちは何も変わらない。」
というような事を言われた。確かにその通りなのだが、忘れるなんて簡単にはできない。まして、こんなに近くにモト夫やその両親が住んでいるという環境では、いつもあの人たちの事が頭の片隅から離れることはない。
先生は「ゆっくり時間をかけて、やっていきましょう」と言ってくれたのだが、私には今の環境を変えなければ根本的な解決にならないことはよく判っていた。
こんな心理状態の時に、やれ結核ではないか、膠原病ではないかと大学病院にまで行って検査をしたりしていたので余計に体調が悪くなってしまったのだった。
とは言え、子供たちもいるし、生活があるのでそういつまでも家で寝ているわけにもいかない。抗うつ剤の効果もあってか気持ちは次第に落ち着いて行った。(やはり、モト夫の顔を見ないのは一番のクスリになったのか?)

とにかく、この土地から離れたい!そう思っていた矢先に今度の盛岡行きの話が持ち上がった。義兄の病気という事さえなければ、踊り出して喜びたいような話である。
義兄には申し訳ないが、やはり引越しが出来ること自体は嬉しい。たとえ引越しが盛岡の一番寒い時期に当たっていても、モト夫の顔を一生見ないで済むなら、南極にだって私は喜んで行っただろう。(うそ〜)
何か目標ややる事ができると人間、元気がでるものである。そんなわけで、今は毎日洗濯もできるし、食事の内容もうつ状態の時に比べて、格段に良くなっている。
人に会うことが苦痛に思えて、今まではストレス発散とばかりに会社で同僚と楽しんでいたお喋りも苦痛でしかなかった。これまで当たり前に出来ていたことがなかなか出来ないもどかしさに悩まされていたが、それが解消されたのは本当に嬉しいことだ。
つまりは、勤労意欲が蘇った、と言う処か。・・・同僚とのお喋りは勤労とは言えないなぁ。

それで今日の日記の題名は、「蘇る金狼」(そんな題名のハードボイルド小説があった)と「勤労感謝の日」を、かけてみた。
こんな、さぶ〜いギャグが出てきたのも私らしくていいんでないかい?と思う今日この頃であった。


11月22日(月) 芸の道

ジロは今、お絵描きに凝っている。
それはいいけれど、自由帳(白紙のノート)が無くなったからと言って、普通のノートにまで絵を書いている。
おいおい、それはただの落書きだろ〜。(~_~;) 先日も
「お母さん、おそまつくんに出てくるイヤミってこんな風だっけ?」と言って描いた絵を見せられた。
「・・・いや、違〜う!」
私は赤塚まんがで育った世代。子供相手とは言え、間違いは正しておかねばならない。
そこで、ジロから鉛筆を奪い取り、サラサラとイヤミを描いてやった。すると・・・
「すご〜い!お母さんのイヤミ、超〜うめぇ〜!!」ジロはタロと一緒に笑い転げて感激していた。
ふっふっふ。母の凄さを思い知ったか。ジロはまたひとつ母への尊敬を深めたのであった。(自己満足)

そんな風にジロはお絵描きが大好きなのだが、今日は細長い風船を持って、私の側にきた。
「お母さん、街の中で芸ができるとお金が貰えるの?」
へっ?そんな事までして我が家の家計に一役買うつもりなのか?(息子よ〜)
「ほら、見て!ボクの得意技!」
そう言うとジロは風船を指の先に立てて、バランスを取り始めた。
ふーん。。。しかし、ジロよ。芸の道は厳しいのだぞー。
「それじゃあ、これはどう?これが一番の技なんだ!」と、小指に風船を乗せる。
あくまでも、指乗せ風船を芸だと言い張るつもりらしい。
「・・・それじゃ、ジロ。角兵衛獅子にでもなる?」
「いや、ならない!」
質問のイミが判って答えているのかぁ〜!?


11月17日(水) 夢のお告げ?

占い好きの私だが、夢占いと言うのはあまり信用していない。
と言いつつ、たま〜に夢占いのHPを見ているのだが、元々の内容が少ないせいか判らないけれど、私が見た夢に一致する占いがないのだ。
夢と言うのは、人それぞれ千差万別な内容だと思うので、それに全くピッタリな占いなんて、そもそもないと思うのだけれど、どうだろう。どうしても占いたいなら、直接占い師の人に夢の内容を話さなければならないのだろうな。
今日、私が見た夢など、今思い出してもトリ肌が立つほど気持ちが悪かった。
読んでから、気持ちが悪くなるといけないから最初に言っておくけれど、ホンットに気持ちが悪いので、グニョグニョ系?に弱い人は、読まないで下さい。

私の夢の話を書く前に、妹が見たと言う夢の話を・・・。
妹が小学生の頃に見た夢だそうだけれど、聞いたのは10何年か前だった。
その話を聞いてから、時々思い出すとウエ〜!!っとなっていたけれど、今日私が見た夢は、妹の夢より気持ち悪かった。
妹が見た夢というのは、膝がなんだか痒いようなヘンな気分がしたので、ふと膝を見たら、膝のお皿の裏に 小さな貝殻がびっちり付いていた、と言うもの。どうやって膝の皿の裏なんて見たのかは判らない。それが夢というものだろう。
だけど想像すると、めちゃ気持ち悪い。
それで本題?の私が見た夢だけれど、妹が子供の頃に見た夢に近い。自分の身体に得体の知れないモノが付いているというもの。
イボみたいなものが身体にある人っていると思うが、私にも赤茶色をした肉の塊みたいなのが、胸の下にポツンとある。
それをちょっと頭に思い描いてから読んで欲しい。
どんな状況でそうなったのかは全く判らない。ただ、夢の中で私は裸だった。
腰が何となくヘン?と思って身体を捻って腰を見た。すると・・・私の腰に肉の塊がまるで、イソギンチャクのようにニョロニョロと生えている。
ひぇ〜。なんじゃこれ〜!!と、思いつつ下半身を見ると、両足の付け根の辺りに同じようなイソギンチャクがどばーっと言う勢いで生えているじゃ〜ないか。
これがイソギンチャクだからまだ良かったのか?アワビだとエッチな話になってしまうところだった・・・(-_-;)
思わず触って見ると、グニャグニャしている。
こ、こんなもんが生えてしまった〜。どうやって取ったらいいんだろう!頭が真っ白、固まったまんまで目が覚めた。
こうして書いていても、吐き気がしてくるんだけれど、ありゃ〜一体、何だったんだろう。

今日一日、夢のことを思い出してずっと気分が悪かったのだ。
あんまり気持ちが悪いので、この夢に何とか意味を見つけようと思って、どうしてこんな夢を見てしまったのか冷静になって考えてみた。
腰と足の付け根。それは私の弱点とも言える個所なのだ。
これから寒くなる季節。私の一番苦手な時期になる。そんな時にもっと寒いところへの引越しもある。
ひょっとして、これは引越しで腰や足を痛めるから気をつけろと言う夢のお告げだったのでは?
な〜んて、解釈をして気持ちの悪さを少しでも忘れようと思っているのだけれど・・・オエ!


11月15日(月) 天皇と将軍

大人にとっては当たり前のことが子供にはとっては未知の世界と言うことはよくある事だが、子供の質問に答えるのは結構、骨が折れるものだ。
ちょうど天皇即位10周年の記念式典の様子をニュースで見ていた時だ。
「天皇陛下って名前は何て言うんだっけ?」と、タロが聞いてきた。
天皇陛下の名前?ハテ・・・昭和天皇はヒロヒトだったよねぇ。と、私がブツブツ言っていると
「何、ヒロヒトなの?」とジロが聞いてきた。
「天皇とか皇族には苗字はないのよ。特別な存在だから。戸籍だってないんだから」
と言う辺りから、話は始まった。
私がいっぱしの歴史通を気取って(子供を誤魔化せる程度だが)天皇家及び日本の歴史などをつらつらと話していると、ジロが口を挟んで来る。ジロはどんな話にも口を出さずにはいられない性格なのだ。
「天皇って、え〜と、昔のお侍さんの一番偉い人でしょ?」 ジロは天皇と将軍の区別からして判らないのだ。それでは、まずは天皇についての説明をしなければいかん。
「つまりだね、天皇というのは昔は神様だと思われていたの。それは神話と言う物語の中の話で、本当は人間なんだけどね。大昔は天皇も戦いをして、一番強い人が自分は天皇だ、この国で一番偉いんだぞ!と言って、日本の殆どを治めるようになったわけ。
で、例えば、自分が会社の社長だったら、自分の子供に社長を継がせたいと思うでしょ。そうすれば、自分もその家族もずっと社長一家でいられるからね。
それで、自分の子供とか親戚に天皇を継がせることにしたわけよ。」
大雑把に言ってそんなもんだろう。
次に天皇と将軍の違いだ。さて、どう言って納得させたらいいものか。暫し考えた後、私は自信たっぷりに話し始めた。
「天皇には家来がたくさんいて、その中でも強い人がいてね。つまり、会社でも部長の下に課長がいて、係長がいて、と言うようにだね、部下を持っているわけでしょ。
その家来の中で、うんと力の強い人が、戦いをしてその中から武将が生まれ、将軍と呼ばれる人が出てきた訳だ。」
「それじゃ、天皇と将軍とは、どっちが偉いの?」と、ジロ。
「だから、天皇は神様と思われていたから、特別なの。将軍は力が強くて偉くなったわけ」
かなり、いい加減な説明だな。
ジロの顔を見ると、イマイチ納得していない様子。う〜ん、それじゃ、これでどうだ。
「だからね、デキスギ君とジャイアンがいたらさ、ジャイアンがオレの言う事を聞け!と言うと、誰も嫌だとは言えないでしょ。嫌だと言ったら殴られてしまうから。
だから、将軍と言うのはジャイアンみたいなもので、力では天皇より強いわけだ。だからだねぇ、実質的には段々、将軍の力が強くなって織田信長、豊臣秀吉に続いて徳川家康が天下を取ってからは、日本は200何十年もの間、大きな戦もなく天下泰平の世の中になって行ったワケだ!」
とてつもなくデタラメな説明になって行ったが、ジロは喜んで聞いていた。
学校のテストでこんな話が役に立つかは大いに疑問であるが、歴史嫌いにならないようにするには、面白い話を聞かせるのが一番だと私は思う。(・・・ホントかなぁ?)


11月14日(日) 一寸先は闇

人生、一寸先は闇。何が起きるか判らないというが、ほんとうにある日突然、思いがけない事というのは起こるものだ。
気がかりだった学校のバザーも終り、体調も良くなってきて、やれやれとホッとしたのも束の間、この数週間、私には心配事があった。それは、姉からの一通のメールから始まった。
義兄に慢性骨髄性白血病の疑いあり、と言う内容だった。
まさか、義兄に限って・・・誰もが身内にそんな病気の人が出るとは思わないものだろう。まして、本人には今のところ、まったく自覚症状もないのだというから、「きつねにつままれたような」という義兄や姉の心境は推して知るべしだ。
ここに、こうして病名まではっきり書いているのも、義兄は医者から病名を告げられているからなのだが、今は告知の問題というのは、あまり重要視されていないのだろうか。
告知するのが当たり前という風潮が広まって、却って病人に対する心遣いがないがしろにされているような気がする。(義兄は日赤病院で診断をされた)
医者はしごくあっさりと、義兄にその病名を伝えたらしい。義兄は却ってそれで気が楽になったというような事を話していたそうだが、そうではない受け止め方をする人だっているだろう。
情報量が多くなった現代で、病名を隠して治療をすること自体難しいことかも知れないが、それにしても何だか割りきれない思いが残る。

慢性骨髄性白血病というのは、急性の骨髄性白血病とは違う経過を辿る病気らしい。
この病気には3段階の進行があり、慢性期−移行期−急性転換期という風に、移行するらしい。
いま義兄は慢性期の中間くらいだろうということだ。
慢性期と言うのは長い場合は数年続き、移行期に入ると自覚症状も出てくるという。そして、怖いのが急性転換期で、そうなると後は時間の問題・・・という事になるらしい。
義兄は、とりあえず3ヶ月入院して、科学療法を受けることになった。
私は姉と話し合った結果、遅くても来年の3月には姉たちの住む盛岡へ引っ越すことになった。姉たちは夫婦で店をやっているのだ。従業員はいるものの、とうぶんの間、店は姉ひとりで切り盛りしなければならない。
私が行って、多少なりとも役に立てればと思い、行くことにした。
姉たちは私の子供の事を思って、私を盛岡へ呼ぶ事を遠慮していたが、私にとってはこの土地へ長く留まることなど、それこそ遠慮したい事なので、それについてはまったく心配には及ばない事なのだ。
むしろ、ここから離れるいいチャンスと思っているくらいなのだから。
離婚した時から、私や子供のことを案じてくれていた姉夫婦からは、いつでもおいで、と言われていたが、埼玉生まれの埼玉育ちで県外へは一歩も出たことのない私は、姉夫婦しか知った人のない遠くの土地へ行くことが不安だった。
けれども、いつかは行くことになるだろうと思っていたが、まさかこんな理由で行くことになるとは思っていなかったので、ショックである。
私が行ったところで何の役に立つのかと思うが、姉は見知らぬ土地へ(義兄の故郷である)行き、この10年というもの、親しい友達を作るヒマも殆どないくらい働きづめに働いてきたのだ。今、姉の不安を思うと居ても立ってもいられない気持ちになる。
出来ることなら今すぐにでも行って、姉を励ましてやりたいがそれも容易に出来ないもどかしさ。
だが、医学は進歩しているのだから、悲観することはないと思っている。義兄も言っているそうだが、むしろ早い時期に発見されて運が良かったと思う。この時期で進行を食い止めることが出来れば、生存率は90%だそうだ。
私が17歳の時に義兄とは初めて会ったのだが、姉夫婦が東京に住んでいた頃はよく泊まりに行って、世話になった。
だからといって義兄のことをそれほどよく知っていたわけではない。今度のことで義兄が大変な病気を告知されているにも関わらず、仕事のケリをつけてから入院することにしたり、告知を受けてオロオロしていた姉を逆に励まして、とても冷静に行動していることを知り、私は義兄に対して(失礼な言い方だが)初めて尊敬の念を持った。
男の人というのは、さすがだなぁ・・・と思うのだ。(人にもよるだろうが)
義兄がたったひとりの家族である姉のことを一番に考えてくれていると思うと、その気持ちに応えるべく私も協力を惜しまないつもりなのだ。

それにしても、ついこの間まで、私自身が病気ではないか、入院することになるのではないかと怯えていたというのに、何という運命の皮肉だろうか。
今、私に出来ることは、一体何なのかを考えている。