うすば蛉蜻日記

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10月28日(木) タロ、塾へ行く(その1)

タロは今年6年生。来年は中学へ上がる。そろそろ塾へでも行かせねばなるまいと夏辺りから考えていた。
なにせ、私とはかつての同級生でありながら上の息子は今年大学生と言う、子育てでは1歩も2歩も先輩のS女から、
「今は中学へ行ってから英語の塾なんて、遅いのよ〜。小学生の時に基礎をやってくるのが当たり前の状態で授業は進むんだからね〜」
と前々から聞かされていたのだ。そうか、今はそんな時代なのか。
義務教育なのに不自然と憤りを感じるものの、我が子の事となると、腹を立てているだけでは仕方ない。
そんなワケで英語の塾はないものかと捜している処へ、丁度いい具合に舞い込んできた1通の塾の案内状。これだ!と速攻で申し込んだのが9月も頭の頃だった。

田舎ゆえ塾も少ない当地。電車でちょっと大きな駅まで出れば、たくさん塾はあるものの、電車で塾へ行かせるのも心配だ。(夕方、塾のバッグを背に電車に乗り込む小学生は数多いるが)
近くにあるなら、行かせない手はない。塾の始まりは、10月の第二木曜日と決まった。大手の出版・教材会社?が主催している塾だから、安心感もあった。

10月に入った。しかし、その時私はうつの真っ只中。毎日、寝てばかりの状態だった。が、タロに
「お母さん、今日からボクの塾の日だよ」と言われて、はっ!と飛び起きた。
そうか、もうそんな日か。ぼんやりした頭で、とりあえず塾から送られてきた書類の入った封筒をリュックに入れて、タロと並んで、自転車にまたがる。
いや、私の自転車はパンクしていたので、行きは押して行って、途中にある自転車屋さんに預け、帰りに取って来るつもりでいた。塾まで歩いても、大した距離ではない。
「お母さん、場所判るの?」
「うん、会社の人に聞いてあるから〜」会社の同僚が、その塾なら、確か自分が帰る方向にある、と言うのでそれを鵜呑みにしていたのだ。
塾は午後6時からだった。この季節、じきに外は暗くなってしまう。
しかも、今にも降り出しそうな空模様の中、一抹の不安を抱えての、タロの塾初日と相成った。

自転車を修理に出して、確か、この辺りと目星をつけていた場所へ辿りついた。その時、5時45分。
おかしい。看板も見当たらない。と言うか、英語の塾らしき看板はひとつあるものの、聞いていた名前とは違〜う。それにその部屋には明かりもついていなかった。
「どうするのォ〜、お母さん」心配そうなタロ。
「ちょっと待て。どっかで電話してみるから〜」近くのファミレスで公衆電話を見つけた。
電話を掛けようと、リュックに入れてきた案内書を取り出すと、『教室に電話はついておりません』とある。ぬわぁにぃ〜!?
それじゃ〜、どうやって連絡を取ればいいんだよぅ・・・と、案内の最後のページに各地区毎の事務所の電話番号が書いてあった。一番近くの事務所へ電話をする。
「あの、今日から塾なんですけど、場所が判らないんですぅ・・・」
「今は、どこにいらっしゃるんですか?」
「あの、ジョナサン(ファミレス)の処なんですけどォ」
「あ〜、それではちょっと行き過ぎですね〜」
と言って、駅からの道順を教え始めてくれたのだが・・・
「ち、ちょっと待って下さい。そうすると、お教室のある場所は、駅を背にして右側ですかぁ?」
「はい、そうです」
が〜〜ん!!私とタロは、駅から左の方向へ数百メートル来た地点にいたのだ。
お姉さんが言うパチンコ店なんて、我が家からは一番近くても、駅から数百メートル。下手すりゃ1キロは西の方角にしかない。
今から、そっちへ行くのかぁ〜。もう、時間がない!
「タロ、間違えた!こっちだ〜〜」
「あ、待ってよぅ〜」
こうして、私とタロの塾捜しの旅が始まったのであった。…オイオイ。
思い出しただけで疲れる。。。はぁ〜。
なので今日は、これまでにしておく。
次回、『タロ、塾へ行く(その2)・感動!涙の塾発見!?』乞う、ご期待を〜。(~_~;)


10月25日(月) トラブルメーカーと呼ばれて幾年月

一週間のご無沙汰です。by 玉置宏・・・また昭和30年代以前生まれの人にしか判らないギャグを言ってしまった。
いつの間にか、今年もあと2ヶ月ほどになってしまった。毎年、今年こそは何事もなく過ごせますようにと神社仏閣に拝んでいる信心深い私なのに、人は私をトラブルメーカーと呼ぶ。
トラブルとまでは行かないまでも、何かしらおかしな出来事に遭遇するタチらしい。

あちこちのBBSでも書きまくった話なのだが、やっと日記を書く元気が出たことだし面白い?話なので、書いてしまおうと思う。(ネタ枯れとも言う)
先日、心療内科へ行った帰りの事だった。
私が通っている病院は、八高線と言うローカルな電車に乗って行ったある駅の近くにあるのだが、その駅のホームの喫煙所で私は、ぼんやりとタバコを吸っていた。すると横から声を掛けてくる人ありき。
「ねぇ、八王子行きの電車って何時に来るの?」
ん?そんなもん、ホームの電光掲示板に書いてあるのに、と思いつつも親切な私は答えてあげた。
すると、また話しかけてくる。
「俺ってさぁ、電車乗るの5年振りくらいなんだよ。それってヤバくない?」
ん、充分ヤバいと思う・・・。なんじゃい、この兄ちゃんは、とその時、私は初めてその若い男の子の方を向いた。
「俺ってさぁ、職業何だと思う?」立て続けの質問責めだ。
「・・・さぁ」
「この髪型がヒントなんだけどさぁ」
ヒントって、私はいつからアンタと職業当てクイズをしてたんだ?
殆ど黒に近いストライプ柄のスーツに、黒のYシャツ。赤いド派手な柄のネクタイをしたアンチャンだ。耳にはピアス。髪型はこれと言って特徴もない、短髪。
「美容師?」適当に答える。と、なぜか嬉しそうに
「俺ね、こう見えても寿司職人なの」と、きたもんだ。ほぇ〜。
そう言いながら、服装とは似合わない柄物のポーチから数枚のピンボケの写真を取り出した。
「今度、君に俺が作った厚焼き玉子を食べさせてあげるよ。美味いんだって、これが」
どうやら、そのピンボケ写真の真中に写っている黄色い物体は、彼が作った厚焼き玉子らしい。
「ねぇ、どうする?いつにする?」勝手に決めるんじゃない。
しかし、これって新手のナンパなわけ?私は今さっきまで心療内科の診察室で、自分の38年間の総ざらいをしてきた処なんだぞ。
「・・・電車来たけど」私は無愛想に言った。
しかし、テキもさるもの。後には引かぬ。
「ねぇ、今度カラオケ行かない?一緒に楽しもうよ〜」あのね〜(-_-;)
「私のこと、幾つだと思っているの?」仕方なく家伝の宝刀ならぬ、見かけに依らぬオバハンだぞ攻撃に出た。何で、こんな処で自分のトシを告白せな、ならんのか。
しかし、そのひと言で、寿司職人もちょっと引いた様子。
「え・・・と、25くらいですか?」ちょっと、言葉も丁寧になっている。兄ちゃんとしては、かなり若めに見積もったつもりなんだな。
「38・・・なんだけど!」訳もなくムッとする。いや、訳はあるけど。
「へぇ〜、俺22歳なんだけど」あ、そうかいな。それくらいだと思っていたよ。
これで退散してくれるかと思いきや、変則攻撃に出てきた。
「で、俺が付き合っているカノジョ、37歳なんだけどさぁ・・・」いるんか、彼女がぁ〜。
「カノジョね、職業は病院の介護なんだ。大変なんだよね〜」
あ〜言えば、こう言う。誰か、コイツを連行してくれ〜。
「あのさぁ、電車。出ちゃうけど」私の一言で、やっと若き寿司職人は電車に乗った。
やれやれ。どうしてこんな時にまでヘンな目に遭うんだろうか。わが身の不幸を呪いたくなった。
・・・ん?あれ〜〜。いつの間にか寿司職人が舞い戻っている。何なんだよ、コイツぅ。
「ケイタイとか、ポケベル持ってない?番号教えてくれない?」しつこいやっちゃ〜。
持ってない!と言いつつ、私はちょっと冷や汗が出た。私がその時着ていたトレーナーには、ドラえもんの四次元ポケットのように大きな胸ポケットがあって、その中にはしっかりPHSが入っていたのだ。
鳴るなよ〜。今は鳴らないでくれ〜。
結局、寿司職人は私に自分の携帯電話の番号を教えて、八王子へと旅立って行ってくれた。
同じ方向へ行く電車でなくて、ヨカッタ。
その寿司職人、5年振りに電車に乗って行った先は、新しい職探しのための面接なんだそうだ。
緊張感を持たんか〜!!


10月19日(火) うつ病と私

この日記は、明るく楽しくをモットーに今まで書いてきた。これからも、勿論そうしたいと思っている。
だが、今私はうつ病になっており、毎日(してないけど)楽しい日記を書くことがとても困難な状況になってしまった。

夏以来、体調を崩して最初は普通の内科や大学病院へ通った。
けれども身体的な異常はどこにも見つからなかった。
先日の日記にも書いたように、自分でも心当たりがあったので、同時に心療内科へも行った。
そこで、先生の口からはっきりと病名を言われた訳ではないが(先生の方針としてかも知れない)私はうつ病のようだと言うことが判った。
はっきり言われたわけではないが、先生の口ぶりからも、それは判る。
自律神経失調症や心身症というのは、ある「症状」が出た時に、つく病名らしいが、この辺の詳しい説明は省略させて頂く。
抗うつ剤も、今日から量が増えた。これは、最初から予定されていた事で、薬に身体を慣れさせ副作用などを最低限に抑えるためだった。

私の病気の根は、子供の頃のイジメ(と呼ぶべきか判らないが)と、親や周囲の無理解、親との関わりの薄さにあった。
親の愛情不足とは、思いたくない。ただ、母との確執は一時期かなりあった事は確かだ。
今日も診療内科へ行ったのだが、先生からは「心的外傷」という言葉が出た。
阪神大震災の後で、ずいぶん話題になった言葉なので、聞いたことがあると思う。
辛い体験をした後に、ずっとその記憶が心の傷として残ってしまうことだ。それが病気のレベルまで行ってしまうと、うつ病や心身症として表面化してくる。
私の場合は、その典型のようなものだった。

子供の頃に負った傷が、癒えていないことは自覚していたが、あまりにも昔のことなので自分では、私なりに心の中で処理した問題だと思っていた。
だが、何か強いストレスなどがあると、子供の頃に受けた影響が深層心理から浮き上がってきてしまうらしい。
「私は誰にも必要とされていない人間だ」
「私は生きていても仕方のない人間だ」
そんな気持ちに支配されてしまうと、しばらくは無力感から抜け出せない。
それに今は先生に、私の病気の根源である、子供の頃の話からしているため、言ってみれば一度塞いだ心の傷を、自分で広げて見せている状態なのだ。
自分でも思い出したくない記憶と対峙している処なので、一時的にうつが却って悪くなっているのだ。
が、これを通り抜けなくては、根本からの治療にはならない。

こうした話をここで書くことにも、抵抗があった。
楽しみに読んでくれていた人たちには、心配をかけることになる。
通りすがりに、ここだけを読んだ人は「なんだ、ヘンな病気を持つやつか」と、思うかもしれない。
だが、うつ病は日本人の100人にひとりは罹っていると言われている病気で、決して珍しくも変な病気でもない事と、必ず治る病気だという事を付け足しておきたい。

これを読んでくれているのは、ごく少数の人で、BBSなどにも顔を出してくれている人たちが殆どだと思っているので、逆に心配をかけたくないと言う思いでこれを書いたつもりだ。
今、現時点での私はBBSにレスをつけることさえ、しんどい。でも、明日には元気になっているかも知れない。いつ、この状態から解放されるのか、自分にも判らない。
けれども、出来ればこれまで通りにみんなに来て欲しい。励ましなどいらないから、ごく普通の話題で賑わってくれていたらと思う。
元々悪い頭の回転が、益々悪くなっているものだから、どんなレスをつけたらいいのか、判らなくなってしまう時があるのだ。
これは私の症状のひとつである失語症?・・・とも違うけれど、声が出なくなる状態とも関係しているのかも知れない。
レスはつけられなくても、書いてくれたものは今も、全部読んでいる。
また、しばらくは他のBBSにも顔を出せなくなるかも知れないが、以上のような理由からと言うことを理解してもらえればと思う。
それからメールをくれた方で、私からの返信が来ないなぁ〜と思っている方も、このような理由なので申し訳ないがご了承してください。

私としては、自分でずっと自覚していた病気なので、病院できちんとした治療を受けることができるようになり、ほっとしている。
今は症状が少し強く出てしまっているため、日常生活にやや支障をきたしているのが辛いところだが、他は普段の私と変わっていないつもりだ。
ちょっと良くなれば(自分でコントロールできていた、今までのレベルくらいにまで回復すれば)、今まで通り私の好きなバカ話を書いて行きたいと思っている。私は根は楽天的な人間だと、自分では思っている。
これまで、この病気を抱えて何とかやってこられたのも、子供の頃に培った空想癖と、根がアホなこと大好き人間だというのが、大きな理由になっていると思う。
うつの状態から抜けだしさえすれば元の私に戻れるのは確実なことなので、私が変わってしまったなどと大袈裟に?驚かないで欲しいと思う。


10月13日(水) 哀しき巨乳伝説

うらんお宝写真館を見て「お〜!うらんってホントに巨乳だったんじゃないかよ〜」と、言って下さるお人もおりましたが、まぁ、聞いておくんなましな。
ワタクシが、この巨乳のためにどれだけの苦労をしてきたことか…

私が自分の乳がでかくなった事に気がついたのは、小学5年生の終り頃だった。昔にしてはかなり早熟な子供だったわけだ。
何かのテレビ番組で夏木マリさんが「昔は大きな胸が恥ずかしくて、隠して歩いていたら猫背になってしまった」と話しているのを聞いて、同士がいた!と思ったものである。
巨乳というのは、大抵垂れる。重力の見地から言っても垂れない方がおかしい。
私も垂れていた。しかもビンボーなので高いブラが買えないから、胸は横にハミ出し、下にハミ出し、変形し放題。
私はかつてはDカップだったのだ。若い頃はそんな胸を持て余していたものだった。
結婚をして、子供が一年置きにふたり生まれると、私の乳は爆乳となっていた。
寝ていたって、ラクに授乳ができたもんだ。

しかし、ある時それは突然、やってきた。
どうしてそれまで気がつかなかったのか不思議なほどだった。育児に明け暮れていて、自分の身体などじっくり見たこともなかったのは、確かだが・・・
ジロが1歳になる頃には、さすがに爆乳時代も終りを告げて、普通の、と言うのは出産前までつけていたブラの事だが、それをつけていた。が、何だかゆるいような気がする。
ヘンだなぁ〜。と思いながらもそれほど気にしてなかったのだが、ある日、風呂上りに私は腰にバスタオルを巻いたままの恰好で、化粧台の処へ行った。ヘアピンでも取るつもりだったのか、忘れてしまったが、引出しを開けて、用を済ませてバシンと引出しを締めた時
「あが〜〜!!」激痛が私の乳首を襲ったのだ。
そう、私は少し前かがみの姿勢で、化粧台の引出しを開け、閉めた拍子に乳を引き出しに挟んでしまったのだった。
はっとして顔を上げると、そこにはへそまで垂れたかと思われるような、しなびたおっぱいが鏡に映っているではないか・・・
ま、まさか。30代になったばかりで、このスルメのような垂れたおっぱい!
が〜ん。しかし、それは現実だったのだ〜。
ジロのやつが2歳まで、出もしない私のおっぱいをしゃぶり続けた挙句がこれだ。
今でも、時々ジロと風呂に入ると
「お母さんって、昔は大きなおっぱいだったんだよね。ボクのせいで、こんなに・・・」
みなまで言うな〜!つい、叫びたくなる私であった。

今?今は、上げるブラのお陰で何とか見た目はBカップを保っておりますよ〜だ。


10月6日(水) 見えない!

私は、以前にも書いたかも知れないけれど、ド近眼だ。
15年くらい前に勤めていた会社の健康診断で、双眼鏡のようなふたつの穴を覗き込むという視力診断装置?で視力検査をした時のこと。
前の人に倣って、その穴に両目を当てて、いつになったら検査が始まるのかなぁ〜と思って待っていると
「ハイ、これはどっち向いてますか〜?」と検査をしている人に聞かれた。
「・・・あの、何も見えないんですけど。」と答えると、その人は「えっ!」という怪訝な顔をして
「それじゃ、これではどうですか〜。見えますか?」と装置をいじくりながら聞いてきた。
「いえ、真っ白なまんまなんですけどォ・・・」私には、シミひとつ見えなかったのだ。
結局、この機械では測定できません。と言われて検査は終った。

最近でも、パソコンに向かう時間が多いせいか(かつての仕事もオフコンを使っていたし)30過ぎても視力が悪くなっていた。メガネ屋のおっさんには
「30過ぎて度が進む人って珍しいんですけどね」と言われてしまった。そんなコト、私に言われても困る。好きで進めているわけじゃない。
今ではメガネなしには、字も読めない。新聞の細かい字はもとより、フォントサイズの16pt(というのだったか?)くらいでも裸眼だとぶれる。
一昨日もお風呂上りに風呂がま洗いの「ジャバ」をしようとして、箱の説明書きを読もうとしたら(風呂の中なのでメガネをしていなかった)小さな字なので、よく見えない。
でも不思議と片目をつぶると見えるんだねぇ。それで何とかジャバを執り行うことが出来たわけだ。良かった、良かった。今まで適当にやっていた事を後悔するほど、凄かったね〜。
その「ジャバ格闘編」は、また後日。


10月3日(日) 脇役

テレビの特番(衝撃のナントカ系が好きなのだ)を見ていたら、9時を廻っていたので子供たちを部屋へ追いやるようにして、私も二階へ行った。
「お母さんは、来なくていいよ。布団はもう敷いてあるから」
最近ジロは、私が疲れないようにと、自分が布団を敷く係りになったつもりでいるようだ。が、私も取りこんだままになっていた洗濯ものをたたむために二階へ上がった。
洗濯ものをたたみながら、ふと気がついて
「まだ歯を磨いていないんじゃないの?」と言うと、ジロは
「さっき、テレビを見ながらやっていたじゃないか〜」と言うのだが、これはアヤシイ。
「そうかな〜、気がつかなかったけどなぁ」私とタロが同時に言うと
「そんなぁ〜。ボクは家の中で、誰にも気がついてもらえないほどの脇役だったのか〜!」
布団の上で転げまわって悔しがっている。誰もそこまで言ってないぞォ。
「それじゃあ、主役は誰なのさ」それはお母さんに決まっていると言おうと思ったら
「それは、お母さんだよ」タロよ、アンタは偉い。が、次に言った言葉が
「だけど、陰の主役はボクだよ」だって。
「それじゃ、悪役は誰なのさ」まだ、言ってるよ。
「それは、ゴキブリ!」きっぱりと、タロ。
な〜るほど。それじゃ、押し入れはきちんと締めておいてね、そこは虫の宝庫だぞォ〜と脅かして私は下へ降りてきた。
子供部屋の押入れの下には、タロたちの宝物?が詰め込まれていて、もう掃除をする気にもなれんのだ。


10月2日(土) 眠りオバ

今日は、学校の登校指導があり、近くの横断歩道で子供たちに指導をしてきた。と、言ってもただ車が来ないか確かめて
「いってらっしゃ〜い!おはよう!」と声をかけるだけである。
だが、それだけのコトでドッと疲れてしまい、PTAの役員会が10時からあるというのに、行きたくないなぁ・・・と思って、他の役員の人に電話をして代わりに行ってもらうことにした。
こんなことは初めてだ。とにかく外へ出るのが億劫で、人と会いたくない気分。
その後11時からは、臨時総会があったのだが、それまで寝ていようと思って目覚ましをかけて寝ていたら、なぜか目覚ましは止まっていて、総会の時間はとっくに過ぎていた。まぁ、いいか・・・

子供たちが学校から帰ってきて、ジロは先生が釣りに連れて行ってくれると言うので、喜び勇んで出かけて行った。タロはゲームでもするかナ、と言うので、私はまたしても自室で寝ていた。
夕方、役員の人が来てパソコンで名簿を作りたいと言うから、教えるのが面倒なので私がやってしまった。
この際だからと思って、今まで体調が悪かったこと、病院へ通っている事など、話をした。
これからのことで協力をお願いすることが出来て、ホッとした。そろそろ臨界点を超えてきていたからねぇ、こっちのウランも。
その人が6時過ぎに帰ると、また疲れが出てナント、9時過ぎまで寝てしまった。時々、タロなどが二階へ上がってくる物音で目が覚めたが、
「ごはんどうした〜?」と聞くと、
「大丈夫、カップ麺食べたから」というので、また寝てしまったのだ。
うちの子たち、栄養失調になるんじゃないだろうか・・・
給食だけが頼りという、情けない状態が、ずいぶん続いてしまったからなぁ。

寝ていた時に夢を見た。起きていて見たら、それは幻覚だわな。
タクシーで子供たちと病院へ行ったらしいのだが、タクシーの中で意識がなくなっていたらしく、気がつくと診察も終っていて、精算窓口に立っていた。私はロレツが廻らない状態でやっと精算を済ませた。
外へ出て、またタクシーに乗ったのだが、気がつくとそれはタクシーなどではなくて、やけにナンパ風の中年のおっさんが運転している。(でもイイ男だった)
「あなた、タクシーじゃないんでしょ!」と言うと
「でも、乗りたそうな顔してたから」と言われた。
そして、道に迷ってUターンも出来ない狭い道に入りこんでしまったのだが、そこでその男がいきなり、車を分解し始めた。
車は屋根が取り払われて、車体をビロ〜ンと男が引き伸ばす(!)と、前の座席のところには深い穴があいていた。鉄のはしごまであって、かなり深いところまで続いている。
いったい、これは何なんだ?と思っていると、私の隣に私とまったく同じ服装をした、私が立っていた。何で私がここにいるわけ?(それに、やけに顔の色艶が良くて元気そうやんけ)
どうも、その私は男の車の中にできた穴から出てきたらしい。呆気にとられて自分を見ているところで夢は終った。
フロイトなら、これをどう解釈するんでしょうねぇ・・・
やっぱし、新しい自分の再生を願っている、とか?でもフロイトの夢診断って何でも性的なものに結びつけることが多いからナ。ただの欲求不満なんて言われそう。ナハハハ・・・


10月1日(金) 元の木阿弥

昨日、かかりつけの病院でもらった紹介状を手に、埼玉医大の医療センターへ行った。
これが遠いのなんのって・・・電車で川越まで出て、そこからバスがあると聞いていたが面倒なのでタクシーに乗ったら1920円も掛かってしまった。帰りはバスにした。290円だもん。
それはともかく、診察前に詳しい問診をされた。ここでは心療内科へ通っていることも話した。
しばらく待ったのち、診察室へ呼ばれた。大学病院というのは、何となく全てにおいて冷たいイメージがあったが、ここは看護婦さんを始め、問診をしたカウンセラーという人なのか、よく判らないけど皆、感じのいい人たちだった。
リウマチの詳しい検査をしてくれるハズだというので行ったのだが、先生は私の手首や足を触診しただけで
「リウマチじゃないみたいですね」と言う。まあ、専門医だからそれだけで判るのだろうが、何か納得いかない。わざわざ来たのに。
そして、またしても胸部レントゲンと血液検査をされて帰ってきた。今まで通っていた病院での検査結果は紹介状に同封されていたはずなのだが・・・こんなに何度もレントゲンを撮って大丈夫なんだろうか。一応、これだって放射能だろうに。(違うの?)
なんだか双六で『ふり出しに戻る〜』ってコマにあたってしまったような気分だ。
病院へ行く予定ばかりが手帳に書き込まれて行くなぁ・・・参った、参った。

ところで、我が家の子供たちの話題も少し。
昨日から一泊でタロが修学旅行へ行った。前の晩、ジロは私に擦り寄ってきて
「お母さん、お兄ちゃんが居なくなると寂しいね。だってずっとお母さんと二人きりになってしまうもん」
たった一晩だけよ、と言っても「だって、寂しいんだもん・・・」と言う。
普段はケンカばかりしているくせに、これが兄弟のいいところなんだろうな。
昔、私が修学旅行へ行った時に、妹が「お姉ちゃんがいないから寂しい」と言っていたと、母から聞かされたことがあったが兄弟・姉妹というのは、いいもんだ。

そのタロも、喘息の発作を起こすことなく元気に帰ってきた。
私にお守りをふたつ買って来てくれた。
七福神守りというもので、「福祿寿・幸福の神」と「恵比寿・金運の神」というもの。なかなか判ってらっしゃる。
そして、出かける前から言っていた「金粉カステラ」買ってきましたぞ〜。
思ったとおり、東照宮名物らしい。東照宮自体がキンキラキンにさり気なくどころか、目が痛くなるほどあちこちに金や赤をこれでもかってくらいに使った成金趣味の豪邸みたいな造りだもんね。
味の方は、金粉が上に乗っているだけで、特別普通のカステラと変わらなかった。