うすば蛉蜻日記

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7月7日(水)息子へ

タロへのお願い

臭い足をいきなり私の顔の前に放り投げないで下さい。窒息死しそうです。

ジロへお願い

小遣いのお札を輪ゴムで束ねて、本棚のところに無造作に置いておくのはやめて下さい。
つい、悪い気持ちを起こしそうになります。


7月6日(火)兄弟漫才

今朝は予定通りに5時45分に起きた。爽やかな目覚めである。・・・ホントは布団の温もりが恋しかったが、意地で起きた。
そうよ、ワタシは生まれ変わったのよ〜。朝からハイテンションである。朝、起きられただけで、この喜びよう。やれば出来るじゃないか〜、と自我自賛までしたりして。睡眠時間も6時間ほど摂れたので充分だ。
寝ている時というのは、ノンレム睡眠とレム睡眠というのがあって、このバランスが取れているといいそうな。それと関係あるのかも知れないが、私は7時間くらい寝てしまうと、朝起きるのが却ってつらい。5時間だと調子がいい。5時間しか寝ないと血圧も上がるようなので、ハイな気分になるのはそのせいかも知れない。ただし、毎日だと危ない。

さて、昨日の私はまだ、生まれ変わる前だった。朝、7時15分にタロが枕元にきて
「オカアサ〜ン、時間だよ」といつものように声を掛けてくれた。う〜ん、わかった、わかったよぅ…もぞもぞしている私に
「また、寝ちゃダメだよ」と冷たく言い放ち、さっさとランドセルを持って階下へ行ってしまう。
しかたなく、もぞもぞと起きあがり、よろよろしながら階段を下りる。朝、階段を下りるたびに、今までこの急な階段を転がり落ちる事もなく生きて来られたのは奇跡だと思う。むちゃくちゃ狭くて急な階段なのだ。階下へ下りると子供たちはパンを食べている。母親がいなくても、とりあえず朝食だけは食べられる子供に育てた甲斐があったと言うものだ。・・・モシモシ?
することもないので(ないことはないのだが…)ふたりの後ろに寝転がって、うつらうつらしていた。我が家では、パンを食べる時にカスが落ちると嫌なのでテーブルの上に新聞の折込み広告を敷く。ランチョンマットなどというお上品なものはないのである。
ふたりはしばらく黙々と食べていたが、タロがなにやらブツブツ話し始めた。独り言かと思ったら、じっとある一点を見ている。それに気がついたジロも何か言っている。最初は半分寝ている脳みその表面を通り過ぎるだけだったふたりの会話だが、よくよく聞いていたら掛け合い漫才のような事を言っている。あんまり可笑しいので目が覚めた。ふたりがどんな事を話していたかと言うと・・・

「・・・1260万円・・・へぇ〜」とテーブルに敷いた広告を見ながら呟くタロ。
「ナニ、ナニ。1260円?安い家だなぁ」ジロが首を突っ込む。
「違うよ、1280万円だよ」
「ふーん、そりゃ高い車だなぁ〜」
「何言ってんのさ、お給料だよ」
「えっ!?お給料が!!」それまでとは打って変わって急に真剣な声になるジロ。
「役員、年俸1260万円以上…管理職、年俸900万円…21世紀の主役はアナタです・・・」
タロは憑かれたように読み続けていた。
そして食事が終り、マーガリンを冷蔵庫に仕舞いながら
「1260万円…高い・・・」まだ、言ってる。アンタも、それくらいの高給取りになってくれよ〜


7月5日(月)決意表明

朝、起きられない。パソコンを買ってから夜更かしが癖になってしまった。先日の懇談会で他の母親に腹を立てたが、人のことなど言えない。今日も明け方まで眠れず、小鳥が鳴く頃にやっと眠れた。「朝、7時15分に起こしてください」とメモをしておいてタロに起こされ、階下へ降りていったものの、パンを食べる子供たちを見ながら床の上に寝そべり、そのまま見送った。こんなことをしていては子供に偉そうに説教もできない。それが悔しい。いや、さっきたっぷり30分ほどジロに説教をしたばかりだが話していて自分で説得力がないと感じて忸怩たる思いである。
夕方、4日ほど前から続いていた妙な背中の痛みと息苦しさに耐えかねて仕事が終ってから病院へ行った。レントゲンと心電図をとられたが異常なし。だが、普段上が100程しかない血圧が142もあった。これは完全に寝不足の証拠だ。
夜、ジロのランドセルの中から、湧き出すようにして出てくるくしゃくしゃのプリントを見て、はっとする。私が見ていなかったから、どんどん生活が荒れてきている。忘れ物も多いと連絡帳に書かれていた。これはイカン。このまま夏休みに突入しては、ますますだらしのない生活になってしまう。
そんな訳で明日から取りあえず6時起きして生活態度から改めることにした。いつまで続くか不安だが子供たちのためにも私がやらずに誰がする〜。すぐ力んでしまうのが悪い癖だが出来ることからコツコツと…なのだ。

早起きにしても、以前は出来ていたことが今になって出来ない訳がない。ネットも朝しかする時間が取れなくなるかも知れないが、私のわがままで子供に悪影響を与えてはいけない。こういう処、私は両極端な性格なのかも知れないが。
しばらく生活のリズムが整うのに時間がかかるかも知れないが、暑い夏を迎えるこの時期から始めるのは丁度いいかも知れない。今日は、朝のタロとジロのオモロイ会話を書くつもりでいたのが、時間がなくなってしまった。最近固い話が多くて、読んでくれる人にとっては、つまらないかも知れないがこれも私の生活の中のヒトコマなのである。


7月4日(日)怒涛の地区懇談会

昨日の事になるが、学校で地区懇談会という行事があった。これはどういうものかと言うと、学校長かPTA会長が交代した年に限って行われているもので、地区毎に保護者と自治会長やPTA役員、学校長や職員が参加して地区内での問題あるいは自治会に聞きたい事や学校に聞きたい事などについて話し合う場を持つ、と言う主旨で行われているらしい。
私は役員としても保護者としても初めて参加したのだが、はっきり言って中途半端で無駄な集まりだと思った。地区懇談会と銘打っているが3,4地区の合同で行われるため、参加する側も地区に限定した話題を出しづらくなり、結果としてその目的が曖昧で中途半端になってしまう。そのせいなのか判らないが保護者の出席は全体の1割り程度だったろうか。自治会長も4地区中、たったひとりしか出席しなかった。

昨日は午前中にはPTAの会議があり、それが終って昼食を取るとすぐに学校へひき返し地区懇談会の準備を始めた。開始時間は午後1時30分。司会は私たち地区長四人が分担して担当することになっている。来賓(自治会長)紹介や校長あいさつなどの部分と後半の協議の部分で担当を分けたのだが、最初の担当になった人たちは、先生やPTA職員の紹介をする順番の事などで頭が一杯になっている。リハーサルまで始める始末。
私は協議の方を担当したのだが、途中からやればいいので気が楽になっていて、それほど緊張していなかった。とはいえ私は人前で話をするのは大の苦手で、今までこんな大役をしたこともなかった。人が大勢いる場所で発言をするなどと言うことは、私にとっては一大事なのだ。
それでも、もうひとりの役員もいるし、私ひとりで話をしなければならない訳ではないので、安心していた。予定を5分過ぎて地区懇談会は始まった。滑り出しはまずまずである。ひとりだけ出席してくれた自治会長の挨拶が済み、PTA会長、学校長の挨拶も終り、先生やPTA役員の自己紹介が終った。

いよいよ、私の出番になった。協議に入る時の簡単な説明だけだ。こじんまりしているので、あまり緊張もなく進めることができた。協議に入ると、各テーブルに学校職員やPTA役員も参加しての話し合いになる。今年のメインテーマは『子供の生きる力を育てる』というものだった。これについても私としては言いたい事がある。抽象的過ぎて、一体どういう事を話せばいいのかよく判らない。直前にPTAの役員からプリントが配られて、それに大体の内容が書かれてあったが、それを懇談会の前に各家庭に配布しておけば、もっと話す内容について考えてこられると思う。まして、取り仕切る私たち地区長にさえ渡されたのは始まる直前なのだ。
地区長はPTA役員の末端に連なっているものの、本部役員とは一段もニ段も下の扱いである。まるでお代官様と庄屋のような関係だ。午前中の運営委員会でも、かなり私はカチンときている。それについては、別の時に話す。

ともあれ話し合いは和やかに、あちこちで笑い声もあがり盛況のうちにおひらきの時間となった。し〜んとしたまま、時間を持て余すと言う事態になるのを一番恐れていた私たちとしては、ほっとした。
最後の締めになって、もうひとりの司会役だった人が私に「やってくれ」と目で合図をしている。えっ!と思ったが、さっさと終らせたいと思っていたので何も考えずに立ち上がってしまった。最後は「これで地区懇談会を終りにします」とひと言いうだけのはずだったのに、私はなぜか
「え〜、本日はお忙しい中そして雨の中を参加頂き、ありがとうございました」と挨拶などを始めてしまった。おい、そんなコトを言ってこの後をどう締めくくるつもりなんだ?と、思った瞬間に頭が真っ白になった。
あとは、しどろもどろになり、何を言っているのか自分でも判らない。あちゃ〜、やっちまったい、と思いつつ、えいっ!とばかりに話の途中でいきなり
「本日は本当にありがとうございました。ご苦労さまでした」とお辞儀をして強引に終りにしてしまった。とほほ、である。思い返せば学生時代、先生に指されて立ち上がっただけで心臓ばくばく、足は震え、声も震えて自分で何を言っているのか訳がわからなくなるのが常であった。一対一でも相手の目を見て話ができるようになったのは、かなり年がいってからである。それがどうした星の巡り合わせか、役員だ何だと人前にでる機会だけは増えてきて、それだけならいいのだが、人からは、かなり図太いオバサンに見えるらしく苦労が絶えない。

昔と違うことと言えば、失敗をしてもクヨクヨしなくなった事くらいだろうか。その点ではホントに図々しくなったと我ながら思う。


7月2日(金)タロの失敗

仕事から帰ると、珍しく子供たちは二人とも遊びに出かけていて留守だった。ジロは毎日誰かと遊ぶのが日課になっているが、タロは家でプレステをやっているか、雑誌の『鉄道ファン』を寝そべって読んでいるかのどちらかだ。珍しいこともあるものだと思っているとタロが帰ってきた。私の側に来るなり
「お母さん、今日はサイアクだったよぅ」と情けない声を出す。どうしたのかと思ったら
「今日、パジャマで学校に行っちゃったよ〜」パジャマの上だけ、着替えるのを忘れたのだという。
「え〜?お母さんも気がつかなかったなぁ。でも、Tシャツみたいなやつでしょ?誰にも判らないよ」私が気がつかないのは尤もな話で、いつものように寝坊をして2階の窓からいってらっしゃ〜い、と手を振っただけだったのだ。ジロが学年帽を忘れたのには気がついたが、タロの服装にまでは目が届かなかった。
「いつ、気がついたの?」
「通学路の途中だよ〜。気がついた瞬間、心臓がバクバクしちゃったよ」笑っちゃ悪いと思いつつ、大笑いしてしまう。
「教室入る時なんて、班長旗で前を隠してさぁ」そんなに気にすることないのに〜だははは・・・。
いつも冷静なタロが、冷や汗たらしている様子を想像すると可笑しくて笑いが止まらなかった。
都合よく朝のうちに体育着に着替える事になっていたそうで、一日体育着で過ごしたのだそうだ。
それにしても、変なところが似るものだ。さすが親子だなぁとつまらない処に感心してしまう。何を隠そう私はセーターの下に、シマシマのパジャマを着たまま会社に行った女だ。
トイレに行って、初めて気がついて「が〜ん!!」と、青くなったのは昼近くになってからだった。


7月1日(木)授業参観PARTU

昨日のジロに続いて今日はタロの授業参観&保護者会があった。科目は家庭科だった。そうした科目も悪くはないのだが、親としては、算数だとか国語といった主要科目を見せて貰いたいところだが、なぜかタロの時は家庭科とか音楽という科目をやる事が6年間通して多い。それはさておき、昨夜、今日の授業で使うのだと言って家庭科のアンケートを書かされた。
『家で味噌汁を週に何回くらい飲んでいますか?』や『味噌汁を美味しく作る秘訣(秘密)はなんですか』それに『食事を作るとき、どんなことに気をつけていますか?』など、5項目くらい並んでいた。
我が家では冬は週に5日くらいは、味噌汁やスープを作るが、夏は殆ど作らない。冷房もない部屋で食べるから、味噌汁は暑さを倍増させて、私は食欲が余計になくなってしまう。正直言って夏はろくなモノを作っていない。それで、ますますバテるのだが。
味噌汁に限らず、手抜き料理の達人の私には、秘訣など特にないが(それが秘訣と言えば言える)「味噌を入れてから、煮立てないこと」と、書いておいた。これは昔から母に聞いていた事だが、つい先日テレビでもそれについてやっていて、味噌汁を煮立てると味噌の中のナントカという成分が壊れて栄養学的に言っても、あまり良くないということだった。
最後の質問、食事を作る時に気をつけている事という質問に、まず頭に浮かんだのは「旨い、早い、安い」という牛丼屋のキャッチフレーズのような文句だが、ふざけていると思われても困るので無難に「衛生に気をつける」と、書いておいた。

授業が始まると、さっそくアンケートの回答を元にして、味噌汁の作り方を先生が黒板に書いて行った。
味噌汁を作る手順を書きながら、生徒に質問をする。どんな具を入れるか、切り方はどうするか、などと言う質問にはそれぞれの家庭の違いが現われている。
タロはそれらの質問に手を上げてはいるが、中途半端に肩の辺りで手が止まっている。ガスに点火をする処から始まって、だしを取るというところまで来た時に、タロが突然、自信を持って思いっきり手を上げた。すでにだしを取る材料としてこんぶ、かつおぶしが挙がっている。なぜだかイヤ〜な予感がする。はい、タロくん。と先生から指されて立ち上がったタロは言った。
「あの、袋に入っている粉のやつです」・・・やっぱり言ったか。くすくすと笑いが起きる。
「コンブでだしは取らないの〜?」と、隣のお母さんから、突っ込みを入れられた。くそっ。


6月30日(水)授業参観PARTT

今日はジロの授業参観と保護者会があったので、会社を早退して学校へ行った。子供たちの通っている学校は各学年二クラスずつしかない。ジロのクラスは3階にある。クラスの位置を入り口の図で確かめてから、一番近くの昇降口を上がった。3階へ行くと、すでに数名の母親たちが廊下に立っていた。
教室の入り口のところに出欠表と保護者会の資料が置いてある。まずは出欠表に○をつけようとして名簿をのぞき込んだ。あいうえお順なので、ジロの名前は最初の方に書いてあるはずなのだが…ん?やばい、クラスを間違えた。もう一学期も終るというのに、しかも二クラスしかないのに、私はジロが何組なのか覚えられない。母親失格か、いや、記憶喪失かも知れない…(ボケていると言うのが段々冗談にならなくなってきているぞ)
授業が始まり教室に入ってジロを捜すと、ジロは教壇の前の席だった。きょろきょろして、落ち着きがない。目があったので「前を向いてろ!」と目で合図をする。
ジロの担任の先生はまだ20代の若い男の先生である。しかも背が高くて、ハンサムだ。そのせいか?授業参観の出席率もいいようである。私は窓際に立っていたのだが、そこへ割り込むようにして入ってきた三人組のオバハンは、授業が始まってもひそひそ話しをしている。自分たちは静かにしているつもりだろうが、うるさいったらありゃしない。
ムカムカして立っていると、先生が問題を解いている子供たちの間を歩き始めた。そして先生が一番後ろの子供のところまで来ると、何が可笑しいのか、どっと2,3人の母親が笑い声を上げた。いくら先生が若くていい男だからと言って(くどい)先生は先生である。顔を見て笑うとは何事だ。
じろりとそちらの方を睨んでいると、さっきから私の横でお喋りをしていた母親たちも「何かしらね」などと、言っている。人のことを言えるか!私は知らず知らず、腕組みをして仁王立ちになっていた。
授業参観に行っていつも思うのは、母親たちのお喋りの多い事である。それで子供に落ち着いて授業を受けろだとか、先生の話を聞きなさいと言えるのか。落ち着きがないのは、あんた達の方だろうが!と言いたい。言えないけど。
確かにそういう処でしか会えない人もいるだろう。しかし、あっちでざわざわ、こっちでひそひそとやっていては、先生も子供たちも落ち着いて授業などできやしない。ひどいのになると、廊下に出たきり授業など見もしないで、ぎゃははは…とバカ笑いしている親もいる。ドアが開いているから、筒抜けになっているのだが、本人たちは気がついていないのだろう。
最初の保護者会の時にも「うちの子供は先生のことを気に入ったみたいです」と発言する親の多いことに驚いた。「気に入る」などという言い方を教師に向かってするのが、自分では誉め言葉だと勘違いしているのだろうか。敬語もろくに使えない非常識な親が多いのだから、子供だってそれなりの子供にしか育たないのだ。私はムカっ腹を抱えたまま、授業参観を終えた。

夜、友達との電話に夢中になっている間に、ジロだけがお風呂を済ませてしまった。遅くなったので、先に食事をしてしまうとタロが「お母さん、一緒にお風呂に入ろう」と言う。チユーはさせてくれないけど、お風呂はまだ一緒に入ってくれるのだ。体格がまだ、4年生並なので私も別に違和感はない。他の6年生を見ると、とても一緒にお風呂に入ろうなどとは、言えないと思うが。
私が髪を洗っていると、タロが県営団地のことを聞いて来た。(来月、また近くの県営を申し込もうと思っている)タロは県営団地は分譲のように高いお金を払って買うものだと思っていたのだ。
「県営の団地というのはね、住むところに困っている人のために県が作って貸してくれている所だから、契約違反したり、収入が多くならない限りはずっと住んでいられるのよ」と言うと、何を思ったのか
「僕が大人になったら、家賃くらいは払ってあげるから大丈夫だよ」と言う。
うっ、タロ〜。お母っさんは、幸せだよぅ。この言葉、決して忘れないぞ。タロが忘れていても、ここに書いたのだから証拠として見せてやるぞ。
「ホレ、ここに証文も残っているのだ。さっさと娘を差し出すのじゃ〜」
「ひぇ〜、それだけはお許し下せえ。お代官さま〜」なんちゃって。
タロの優しさに思わず抱きしめてチューをしたくなったが、やめておいた。


6月29日(火)OLだった頃の話

昨日、書きかけの文書を保存しておいたフロッピーが今朝になったら読み込めなくなっていた。そのフロッピーにはホームページのデータもバックアップしてあったので、あせった。何度やっても「読み込みエラー」となって、とうとうお陀仏になってしまった。まあ、バックアップは他にもあるから、いいのだが。

そう言えば、昔コンピュータメーカーでインストラクタをしていた時にも、結構、凡ミスを繰り返していたっけ。データを丸ごと消したことはさすがになかったけれど、ちょっとしたファイルを消してしまったことや、デバッグ(プログラムの動作テストとでも言うのか)済みのプログラムを古いファイルで上書きしてしまったりした事もあった。それは、ちょっと大変な事だけど…
その昔私が勤めていたのはオフコン(オフィスコンピュータ…今では死語かも?)の販売会社で、経理、システム、営業、サービス部に分かれていた。私は事務員募集の広告を見て申し込んだのだが、なぜかシステム部に配属されてしまった。そして突然インストラクタという肩書がついたわけだ。コンピュータなど、見るのも触るのも初めてだった。それに研修などもろくになかったので最初は毎日マニュアルとにらめっこしていた。
当時の課長から忘年会の時に「最初はマニュアル見ているかタバコ吸っているかだったな」と、言われたくらいマニュアルを見ることくらいしか(それかタバコを吸うか)やることがなかった。

インストラクタの仕事は大変だったが楽しかった。オフコンは、他のメーカーも多分似たようなものだったと思うが、当時システムは顧客毎にオーダーされるので最初は部長やSE(システムエンジニア)と一緒に客先へ行って打ち合わせをする。それからSEが設計したシステムをプログラマが入力し、デバッグを繰り返して完成させてお客に収める。と、まあ大体こんな流れになっていたと思う。
インストラクタと言ってもSEのお手伝い要員のようなものだったので、デバッグを手伝うこともあったし、プログラムのムシ(バグ)を修正したり、でき上がったものを納品したりと言うこともしていた。その合間に、客向けにマニュアルも作成しなければならない。それ以外にも顧客への電話サポートの仕事がとても重要と言うか、社内でやる仕事の6割が電話サポートだったと言ってもいいくらいに、マシンの動かし方から、エラーが出た!ナントカしろ!などと朝から電話が鳴り続ける事も多かった。残業も多い会社で午後8時に会社を出ると、今日は早く帰れるな〜、と思ったものである。あぁ、若かったなぁ。今ではとても毎日残業なんて出来ない。今でも、こういう業種の会社では同じようなものらしい。

私が好きだった仕事はパッケージと呼んでいた完成品のアプリケーション、給与計算システムの仕事だった。このシステムは半オーダーになっていて基本システムは出来ている。あとはパラメータと呼ばれる顧客に合わせた固有のマスターデータや計算式を作成するだけだった。パッケージの仕事はインストラクタひとりに任されるのが普通である。私はこのパラメータを切るのが大好きだったのだ。
パラメータには給与明細に載せる項目や、給与の計算式などを設定する。パラメータを作成するための記入用紙があって、それに細々と書き込む作業も好きだったし、仮のデータを入力して計算式が合っているかデバッグをするのも好きだった。ものがお金に関わることなので、絶対に間違いがあってはならない。
デバッグが一度で済むことなど滅多になく、計算式の誤りを確認するために計算の課程をパラメータの記述通りに出力した リストを見ながら手直しして行く作業が、なぜかこの上なく好きだった。るんるんしながら、やっていた。たぶん、他にはそんな奴はいなかったと思う。そういう点はやはりオタク系な人間かも知れない。しかし、頭を使った作業は私にはこの辺りが限界であった。

25歳で社内結婚をして、窓際族に配置替えされて(同じ部署に夫婦がいてはまずいというので)、しばらくして体を壊したりして退社するまで、約3年ほどの今思うと、短い間だったが楽しい職場であった。その間で、一番の思い出と言えば、本庄のアルミサッシ屋さんへ仕事で行っていた時に、昼時になると奥さんがレストランへ連れて行ってくれて、ランチだが美味しいステーキをいつもご馳走してくれた事や、熊谷の商業団地に行っていた時、バスも滅多に来ないところだったのでマニュアルやフロッピーが詰まった重いカバン(寅さんが持つようながっしりしたデカいものだった)を下げて、駅から団地まで真夏に1時間くらい歩いて泣きそうになった事とか、そこの商業団地のお客さんはむっつりした恐い人だと思っていたら意外に優しくて、団地内にある唯一のレストランで、あの頃で1500円もする豪華な弁当を二度も食べさせてくれた事などだろうか。
何だか全部、食べることに関係している処が我ながら卑しいというか、意地汚いと言うか・・・・
食い物の恨みは忘れないと言うが、食べ物でお世話になったことも、きっと忘れないものなのだろう。

そう言えば、私は唇にほくろがあるのだが、よくこういう人は食べる事には不自由しないと言うけれど、ホントウだと思う。私は食事をおごってもらったり、食べ物の頂きものが多い方ではないかと思う。それは私の人徳かと思っていたけれど、ひもじそうに見えるだけなのか?
「遠慮というものを知らない」とも言うかも知れない・・・