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こばやしくんのこと

この話は、私が小学校入学時から二年生の一学期までを一緒に過ごした男の子『こばやしくん』の思い出です。10年ほど前に、ある『書き方講座』に提出した文章に少しだけ手をいれました。
私にとっては小学生時代の忘れられない同級生の思い出です。


こばやし君のお母さんは、ドアの外に立ち続けていた。教室のうしろのドアにある小さな窓から、じっとこばやし君を見つめていた。
こばやし君のお母さんの背中では彼の妹が可愛らしい丸い目をキョロキヨロさせていた。
小学校に上がって初めての授業参観だった。他の父兄は教室のうしろに並んで授業を見ているのに、彼のお母さんだけはドアの陰に隠れるようにして教室の中を覗いていた。
こばやし君はいつもと違う雰囲気に興奮したのか、普段よりも一層落ち着きがなくなっていた。
彼は精神薄弱児だった。本当は私たちより二、三歳とし上だという事だった。そのせいか、からだはクラスの誰よりも大きかった。
こばやし君は一秒たりとも、じっとしていられない子供だった。やたらと声が大きいので、それだけで始めの頃はみんな驚いていた。

参観日の当日、こばやし君はご機嫌だった。後ろのドアが開いて、誰かの父兄が入ってくる毎に、意昧の判らない大声を発していた。それが彼の機嫌のいいときの癖だった。そんな彼を見て失笑を漏らす父兄もいた。
こばやし君は母親を待っていたのだ。時折いつものはにかみ笑いを浮かべながら、お母さんの現れるのを待ち続けていたのだ。
けれども、ずっと前からこばやし君のお母さんは、そんな彼を見つめていたのだ。彼の気が付かない場所から。
こばやし君のお母さんはドアの小窓から顔を半分だけ覗かせて、怒っているような、何かに耐えているような哀しい目をして一点を見つめていた。そこにその人がいる事に気がつく事さえ悪いような気がして、私は目を逸らして知らん顔をしていた。
授業が終わるころ教室のうしろのドアの方を見ると、そこにはもうこばやし君のお母さんの姿はなかった。
あの頃の私は、ああした彼のお母さんの姿にただ漠然とした哀しみを感じたが、今、自分も母となり、あの時のこばやし君お母さんの胸中を考えると、尚更切なく当時の事が思い出されるのだ。

こばやし君は、とても人懐こい子供だった。話しかけられると、とても嬉しそうな顔をした。そして何でも言いなりになってしまうのだった。それが嘲笑であっても彼には見分けられなかった。その人をいい人だと思い、笑顔が自分へ向けられた、その事がただ嬉しいのだった。
そんな彼に対して、いじめは絶えることがなかった。その日、下校をしていると公園の砂場に人垣ができていた。なにげなく見ると、こばやし君が口中を砂だらけにして笑っていた。
「こいつ、砂食ってやがんの」
誰かがそう言うと、周りの子供がもっと食べろと、はやしたてた。
大きな手にいっぱいの砂を掴んで口元へ運びかけたその手をひったくるようにして掴むと、私はこばやし君を引きずるようにして歩きはじめていた。悔しくて悔しくて、涙が出そうだった。注目を浴びる嬉しさに笑いながら砂を食べたこばやし君。どうして、そんな彼を笑い者にできるのだろう。

私は自分がいじめられっ子だったので、こばやし君に対しては同情よりも同志のような気持ちを抱いていたのだ。こばやし君は他の子のように私を見ない。それが私を安心させた。
いつしか私たちは一緒に下校するようになっていた。ただ並んで一緒に歩くだけだった。こばやし君はいつもにこにこして歩いていた。
彼と目があうと自然と笑顔がこぼれた。が、ひとつだけ困ったことがあった。こばやし君がいつも手を繋ぎたがることであった。恥ずかしさもあったが、それだけではなかった。
学校から分かれ道にさしかかる30分近い道のりを、こばやし君は汗ばむほど力を込めて私の手を握って歩くのだ。何があっても離さないとでもいうように。やがて右と左に分かれる道で
「じゃあ、またね」といって彼と別れようとするのだが、こばやし君はいつも淋しそうな顔になり、なかなか手を離してくれない。何度か別れの言葉を交わして、やっと彼の手から解放された時にはいつも私の手は痺れてしまっていた。そのむずむずとした感覚が気持ち悪くて仕方なかったが、こばやし君がにこにこして手を差し出してくると、断ることはできなかった。

二年生に進級した。こばやし君は相変わらず自由気ままに振舞っていた。
一学期が過ぎ、夏休みが終わって学校へ行くと、こばやし君の姿が見えなかった。
「こばやし君は○○小学校(特殊学級があった)へ転校しました」と先生がいった。一瞬教室がざわめいた。
口には出さないが安堵のため息を漏らす子もいた。そして、何事もなかったかのように二学期は始まっていった。
そんなある日の下校時、校門を出て歩き始めた私の前をこばやし君が歩いていた。彼が転校した学校は元の学校の近くにあり、通学路もそれまでとほとんど同じだったのだ。
私は足を早めて彼に追いついた。こばやし君は私に気がつくと、あの懐かしいはにかみ笑いを浮かべてくれた。私を覚えていてくれたのだ。一緒にいた女の人はこばやし君の担任の先生だったらしく、私の名前を聞くと
「あなたのことは、いつもこばやし君から聞いているわよ」と言ってくれた。

こばやし君は私をじっと見つめると、おずおずと手を差し出した。
私は力いっぱい彼の手を握って歩きだした。