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我が家のご先祖さま
我が家のご先祖さまと言っても、私の母方の先祖の話になる。判っているのは母の方だけなのだ。
父の実家は昔、東京下町で下駄屋をしていて戦後潰れたらしい。祖父は私が生まれる前に亡くなっている。事情があって父は長男だが家を出て、母の両親の家の隣に小さな家を建ててもらって(祖父は大工だった)ずっと暮らしていた。現在も母の弟の代になっているが、まだ両親は肩身を狭めつつそこで暮らしている。それで、父方の親類についてさえ殆ど私たち子供は聞かされていない。
我が家の(と敢えて言わせて頂く)ご先祖は武士だった。判っているのはせいぜい150年くらい前の、江戸末期の話である。母の父、私の祖父に当たる人は婿養子だった。従って正確には母方の、そして祖母の実家のご先祖の話である。 話をしてくれた伯母も今は他界しているため、詳しいことを調べるのは難しい。伯母が書き残してくれた資料を元に話を進めると、ご先祖さまはかつては現在の福島県、相馬中村藩の藩士だったそうだ。結構、出世したらしいがお家騒動に巻き込まれ、その責任を取る形で脱藩した四人ほどの侍の中のひとりだったと言う。しかし苗字帯刀を許されていて、姓を中村と名乗ったと言う。現在も母の実家は中村姓である。(伯母は脱藩後に名乗ったというが、お家騒動のさなかに苗字帯刀を許されると言うのもおかしな話なので、多分その前から名乗っていたのだと思う) 今で言えば、しがないサラリーマンだったご先祖さまは山形は米沢に移り、そこで上杉藩に召抱えられる事になった。上杉藩では殿様に気に入られてお小姓をしていたと言う。
その後、後継ぎのない大店の紺屋に請われて婿養子になった。上杉家御用達の紺屋だったため、その後も殿様に呼ばれてご相伴を勤めることも多かったと言う。
ある日、いつものようにご先祖さまがお城に上がって帰宅すると、家人に向かってこう言ったそうだ。
「今日は殿様にウエスギと言うお酒をご馳走になった」
これが冗談だとしたら(多分、マジでそう言ったのだと思うが)私のダジャレ好きはご先祖さま譲りと言える。
このご先祖さまが私の祖母の先々代に当たるらしいが、相当なお人好しだったらしく明治維新で無用となった刀を侍から借金のカタに(返す当てなどないのだ)預かり、それが倉に山のようにあったと言う。今残っていればお宝になっていただろうに残念である。このご先祖さま、人に頼まれると厭と言えない性格でもあったらしく、ずいぶんと困った人にお金を貸していたらしい。そんな事をしているうちに家は没落してしまった。
商いが順調だった頃には何町歩と言う土地を持っていて、米沢の祖母の家から今の駅の辺りまで他人の土地を踏むことなく歩けたと言う。春には家の庭先の桜の木の上に畳みを乗せて花見を、冬には雪見とずいぶん豪勢な暮らしをしていたらしい。祖母には乳母がつき、まさに乳母日傘で育てられていた。が、それも祖母が3、4歳くらいの頃までの話であった。
没落後の祖母は辛酸を極めたらしい。まだ2歳になるか、ならないかの妹と別々に農家に売られてそれを見かねた祖母の父親が籠を背負ってこっそり連れ戻しに来て、夜道を父親の背中の籠の中で揺られていた思い出があるという。妹の方は可哀想なことに、食べるものも満足に与えられずにじき亡くなってしまったそうだ。まるで「おしん」のような?人生を歩んだ祖母であった。どうして、子供たちが売られるはめになったのかは、伯母の記録にあると思うが、今は詳しく触れないでおく。
生家は人手に渡り、小さな家に暮らしている時に、遊んでいると見知らぬ人にも「あんた、あの島屋のおじょうさん?」などと声を掛けられることもよくあったそうで、そうした時の大人の目に浮かぶ憐れみの色を見るのが子供心にも辛かったと言う。そんな思い出があるせいか生家が米沢の大火で焼失してしまったことを風の便りに聞いた時、祖母は心底ほっとしたそうだ。
祖母の実家は島屋という屋号の紺屋であった。
このご先祖さまの写真が伯母の部屋に飾ってあり、遊びに行った時に何度か見たことがある。ちょんまげを結って脇差を差し、背筋を伸ばしてじっと前を見ている。厳しい顔をした武士がそこにはいた。当時はまだ写真はあまり普及していなかったし、特に田舎の人は魂が吸い取られると言って写真に写されるのを嫌がったというから貴重な一枚かもしれない。
殿様のお供をして福島に行った時に写したものだそうだ。数人の人と移っているが、残念なことに(当然か)お殿様は写っていない。ご先祖さまの名前はたしか中村(島屋)大学と言ったと思う。
昔の話に関しては、伯母が何編かの話を遺してくれているのでいずれ、このHP上で紹介したいと思っている。
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